BIOGRAPHY



Louis Jordan

Arkansas 州の Little Rock からおよそ東に 100km、北緯 34度 53分 25秒、西経 91度 11分 30秒、かっての大統領からその名をつけられた「Monroe」郡の中にある町、(西暦 2000年の国勢調査によれば、人口は僅か 3,940人。住居や店舗、官公庁を含めて 1,543棟の建物があり、世帯数は 972。住民の 49.09%が白人で、48.55%が黒人。残りはアジア系、オセアニア系、ヒスパニックにその他となっています。・・・とは言っても、それは 2000年でのデータですから、1908年当時にはどうだったのでしょうか?あいにくと、そこまで遡るデータには辿り着くことが出来ませんでした) Brinkley は市域の面積が 15.4 km平方と言いますから、やはり小じんまりとした町と考えていいでしょう。
その町で音楽を教えてもいた(学校の音楽の教師なのか、あるいは音楽教室みたいのの先生なのかは判りませんでしたが)プロ・ミュージシャンからお話は始まります。

地方の単調な生活の中で時たま巡りくる様々な「お祭」というものはメディアの発達していなかった 19世紀末から 20世紀初頭にかけては、今では考えられないほどの大きな存在でした。そして、そのような Fair や Carnival を盛り上げてくれるサーカスやヴォードヴィル・ショーはまさに主役級のスターだったのです。その中でも重要なポジションを占めていたのが Minstrel Show と言われる特殊な演芸集団による公演でした。
本来の「ミンストレルズ」は、白人が顔を黒塗りにして、黒人の(つもりの)唄やダンスを披露し、コメディや、場合によってはマジックまでも組み合わせて地方の老若男女を楽しませる、というものですが、もちろん、そこには人種にまつわる「人権意識」など、カケラも存在しておりません。いやそんなこと思いついてもいなかった 18世紀の晩期あたりではこの程度の差別意識(あるいは「差別習慣」か?)は「当たり前」だったのでしょう。
記録に残って(かつ特定できて)いる限り、最も古い名前として、1769(!)年の Lewis Hallam という芸人が、白人でありながら顔に靴墨を塗って酔っぱらった黒人の振りで唄や踊り、カンタンなコントのような芸を披露していたようです。
彼のその芸はたちまち有名になり、やがては「黒人音楽」と称する演奏や、踊り、かけ合い、コントなどを複合させた一大エンターテインメントとして、キャラヴァンを組んで各地を公演して歩くようになりました。
しかし、初期の彼らの言う「黒人音楽」は、むしろアイリッシュやスコティッシュの色の強いものだったようで、実際にその一行が南部にもツアーに行くようになって、「初めて」ホンモノの黒人の歌唱やダンスに触れた、というメンバーが大多数だったようです。
そのような状態がほぼ一世紀ほど続きましたが、その間にも「頂点」と言えるのが 1843年に New York の Bowery Amphitheatre で Dan Emmett と The Virginia Minstrels が公演を行ったあたりでしょう。
このすぐ後の E. P. Christy が始めた the Christy Minstrels のショウとあいまって、それ以降の同種のショウのフォームを決定した、と考えられます。これらの2つのグループは、オペラ団、サーカスおよびヨーロッパからの旅芸人たちと同じツアー・サーキットをこなし、南北戦争まで、ショー・ビジネスを席捲していたのです。
一方で、これらのミンストレル・ショーの人気の上昇というものが、アメリカにおける奴隷制度廃止論者の隆盛とシンクロしている、と分析する資料もあります。
実際の黒人の音楽とはいささか異なっていたにせよ、北部の(特に都会で生活する)白人たちにとっては、これらのショウによって(多少の、あるいはかなりな誤解を含んでいる、とは言え)黒人に対する親近感、そして、そこから黒人の文化に対する意識の変化がもたらされたのかもしれません。
実際に、ミンストレル・ショーが黒人たちの生活を「ある程度」伝えてくれたのは確かだとは思いますが、そこはショウである以上、ハッピーなオモシロおかしく暮らす人々、という「誤った」イメージもまた伝えてしまったのではないでしょうか?
もちろん、顔の「黒塗り」は、白人たちの意識の根底にある、黒人たちをバカにした見方の現れですから、白人が人種として完全に「上位にある」という妄想が、ショーの描き出す「黒人たち」にあらゆるバイアスをかけていたことは否めません。
やがて南北戦争を経て、奴隷解放の波が襲い、白人の側の意識も変化してゆくにつれ、ミンストレルも様がわりして行き、例えば女性への参政権を求める運動や禁酒運動に関わるアピールを採り入れるなどして「黒人を茶化す」ような外観を脱ぎ捨ててゆくようになります。
なによりの変化は、「本当の」黒人の演奏家がショウに加わるようになってきた、ということではないでしょうか?
そして、本来の、白人だけで、顔を墨塗りしてパフォーマンスをする「ミンストレル」は、各種資料によると、19世紀末で「絶滅」した、と。
史上最初の黒人だけで構成されるショウは Callender's Georgia Minstrels で、すでに南北戦争のさなかから早くも北部諸州をツアーしています。 こうして、この手の黒人だけのミンストレルが、黒人にとってのショウ・ビジネスへの最初の入り口となったのでした。

南北戦争が北部の勝利に終り、一応、名目上は黒人たちが「奴隷」という身分から解放されると、ミンストレルの規模は拡大の一途を辿り、中には New Orleans の the Silas Green Minstrel のように 1930年代には総勢 65人もの「御一行様」で客車の横っ腹にデカデカと SILAS GREEN MINSTRELS と大書して列車で乗り込み、専用の大テントでショウを行う、というものまで出てきています。(ただし、その 1930年代からは Radio と Movie というメディアが登場することにより、ミンストレルズの人気は徐々に下降を開始するのですが)
さて、それらのミンストレルズの中に、The Rabbit's Foot Company によって運営される Rabbit Foot Minstrels という団体もありました。およそ 20世紀の初頭から 1940年代まで続いたとされるこの Rabbit Foot Minstrels は Pat Chappelle という「黒人」が所有し、マネージメントも行っていたようです(ただし 1911年に彼が死亡したため、F.S. Wolcott という白人がオーナーとなっています)。そしてこの一行も Silas Green 同様に、自分たちの専用列車まで備え、自前のブラス・バンドを抱えておりました。

その Rabbit Foot Minstrels の演奏家の一人で、冒頭に記した音楽の先生、しかも the Brinkley Brass Band のバンド・リーダーでもある、James Aaron Jordan という人物がおりました。
そして彼の妻 Adell との間に、1908年 7月 8日、ひとりの子供が生まれています。そしてその男の子こそ、まさに「巨星」と呼ぶにふさわしい、偉大な存在(あ、ワタシにとって、ね)となって行くのでございます。

さて、特に誰とは申しませんが、他のジャンルの音楽に接近して活路を見出し、それで延命を謀るよなアーティストっていますよね?
しかしそのよーなイミでの「クロス・オーヴァーやらフュージョン」ではなく、その持てる才能がハナから既定のジャンルに収まり切らず、それゆえに各ジャンルにまで多大なる影響を与える、でも、そこの生えぬきじゃないから、という理由で、そのジャンルのスペシャリスト(?)からは半ば他所者視される存在・・・ロックンロール、ラテン、ジャズ、R&B、そしてもちろんブルースに偉大な足跡を残しているのに、そのハミ出しぶりから純粋の「〜イスト」と認められないイノヴェーター・・・ワタクシにとってはそんな風に思える偉大なるミュージシャン、1908年の夏 Arkansas 州の小さな町に生まれたのが、Louis Thomas Jordan、いえいえ Louis Jordan そのひとなのでございます。

音楽家である父を持った、という意味では恵まれていたとは思います。しかし、一方では母親の Adell を早くに亡くしているようなんですよ。あいにくその正確な時期は特定できなかったのですが、その後の彼は祖母の Maggie Jordan、そして叔母(あるいは伯母?)の Lizzie Reid の手で育てられています。
そして 7才から父について楽器を習い始め(一部の資料では、最初に覚えたのがクラリネットである、とされています。そして、ある日、楽器店のショー・ウィンドーに飾られていたサキソフォンに魅せられてしまい、それを手に入れるため、街中を駆けまわる「使いっ走り」で駄賃を稼いだ、というエピソードも登場しております)、ほどなく、クラリネットはもとより、サックスならソプラノからバリトンまで(見掛けとは反対に、サックスの場合、大きいバリトンの方が、小さいソプラノよりラクに吹けるのだとか)、さらにピアノまでも弾けるようになって行ったようです。ううむ、遺伝で片付けちゃうとカンタンなんでしょが、おバカな二代目なんてザラにいますからねえ。やはり「稀有」な才能に恵まれておったのでは?と思いたくなります。

1923年には、まだ 15才でありながら初ステージと思われる活動が記録に残っています。
生まれた町、Brinkley からは Little Rock を挟んだ反対側にある町、Hot Springs( Arkansas州 Garland County にある町で、Little Rock の西南西、約 80km の位置にあり、Brinkley よりは遥かに大きな人口 35,750、しかし白人の比率が高く、78.86% を占めています。黒人は 16.87% に過ぎません)の Green Gables Club で Ruby "Junie Bug" Williams(あるいは Ruby "Tuna Boy" Williams )のバンドで演奏をしたようです。ただし資料によっては、そのバンドの名前を Belvedere(というのは、たしかオーストリアにあるハプスブルグ王家の宮殿じゃなかったっけ?) Orchestra としているものと、Belvedere Band としているものの二種類があります。
もっとも Louis Jordan は音楽漬けのモロ文化会系とゆーワケではなく、Little Rock の Arkansas Baptist College に通っていた間は Baseball にも熱中していたのだそうでございます。どうやら夏休み(アメリカでは夏休みが学年変わりなんでしょ?)には音楽、という配分だったのかも。
ただ、その Ruby Williams とゆーお方、名前だけは時たま登場してくるんですが、どんなひとなのか、どんな音楽だったのか、がさっぱ判りません。どーやらバンドでの演奏も残っていないようなんで、この「経験」が Louis 少年にどんな影響を与えたのか、ともかくナゾでございます。
さらに、この時期(あるいはその後、卒業してから、とする資料もあって、やや混乱しておりますが、ともかく Philadelphia に移るまでの間に) Jimmy Pryor の Imperial Serenaders というバンドでも共演していた、と言われているのですが、この Jimmy Pryor は、あの James Edward "Snooky" Pryor の「いとこ」でブルース・ハープのプレイヤーでもあった Jimmy Pryor とは「まったくの」別人のようです(また Imperial Serenaders という名前で 1920年代以降のオールドタイム・ジャズを「あなたのパーティや催しに出張して演奏いたします」ってゆう「現代の」ビッグ・バンドはあったんですが、これまた縁もゆかりも無さそうです)。あいにく、そのヘンの資料は無いみたいなんで「推測」でしかないのですが、この頃の彼はアルト・サックスをメインに吹いていたんじゃないでしょか?もちろんクラリネットも出来たし、すでにこの頃にはピアノもかなり弾けていたようですが、本人としては、アルト・サックスが一番好きな楽器だったらしく、それは後年、むしろヴォーカリストとして有名になってからでも、変わらなかったと言います。

1930年には彼は Pennsylvania 州の Philadelphia に移り、そこでトランペッターの Charlie Gaines のバンド、そしてチューバ奏者の Jim Winters のバンドにも参加したようです。
あいにく、この二つのバンドについてもあまり詳しいことは判りませんでしたが、Charlie Gaines とは 1933年から 1935年、さらにヴァイオリンの Leroy Smith とは 1935年から 1936年、Chick Webb とは 1936年(1932年から、とする資料もあります)から 1938年、その他にも Fats Waller や Kaiser Marshall などとの交流を広げて行き、これが後の the Tympany Five となるのですが、それはもう少し先のこと。
ところで 1932年には Louis Jordan が Julie という女性( Arkansas 州 Arkadelphia 出身だそうですが、結婚前の苗字も判りません)と結婚しています。

Louis Jordan は次に New York に移るのですが、そこで先に挙げた the Tympany Five の母体となった人たちとの交流が重要になって来るのですが、とりあえずは、その中の Chick Webb です。

Chick Webb ─ William Henry Webb は 1909年の 2月10日、Maryland 州の Baltimore で生まれています。
しかし、小児結核を患ったことが原因で発育不全となったのか、きわめて背が低く( 「Chick」にはヒヨコ、子供などの意味がありました。当時は「差別用語」なんて言う概念も無かったんでしょうね)、脊柱も曲がっていた、と言われています。
それでも新聞の配達でカネを貯めてドラムを買い、それが 11才の時にはすでにモノになっていたとか。そして 1925年には New York に移り、Harlem で自分のバンドを率いるようになりました。
そして、彼が一躍名を挙げることとなったのが Lenox Av.に面し、140th と 141st までのワン・ブロックを通して建っていたビルの 2階にあった有名なダンス・ホール The Savoy Ballroom の専属バンドのリーダーだった時期でしょう。
このワン・ブロックの幅いっぱいに使ったホールには相対する二つのバンド・スタンドが用意されており、一方にはホーム・チーム(?)たる Chick Webb の The Savoy Ballroom Band、もう一方のアウェイ側のバンド・スタンドには時には The Benny Goodman Orchestra が、またある時には the Count Basie Band が「来襲」し、この相対する二つのバンドが交互に演奏して、ホールのみんなのリアクションで雌雄を決する『Battle of the Bands』が呼びものとなっており、しかも、しばしば侵略者たちは Chick Webb のバンドの前から「泣いて帰った」と言われております。
この Savoy Ballroom は「 Whites Only!」としていた the Cotton Club とは異なり、白人も黒人も一緒になって音楽を、ダンスを楽しむ、というスポットで、ここから生まれ、あるいはここから広まっていった新しいステップもあるほどの極めて「トレンディ」な場所でした。
しかも、バトルはまた双方のバンドにとってもお互いの交流の場となっており、New York のミュージック・シーンの重要な一翼を担っていた、と言えるでしょう。
さて、その Chick Webb が 1935年にひとつの偉大な才能を発掘するのでございますが、彼女は Virginia 州の「ヴァージニア半島」の南端に位置する independent city(ここで言う「独立都市」とは、中世イタリアにおける都市国家のような意味合いの「独立」ではなく、アメリカにおける行政区分上の分類です。たとえば Louis Jordan が生まれた Brinkley は「市」でありながら Monroe「郡」に属しています。しかし independent city たる Newport News は「州」の下に「郡」と同格で並ぶ「市」であり、よってアメリカにはそのディレクトリを異にする二種類の「市」があることになります。日本の「市」が independent city に近い)、人口が 2000年の国勢調査では 180,150人とありますから、ここ弘前より 5,000人ほど住民が多い「市」 Newport News で 1917年の 4月25日に生まれております。
やがて 13ものグラミー賞を獲得することになるその少女は、New York 州の Yonkers( New York City の北、Hudson 河の東岸に位置する、州内では4番目に大きな町。人口はほぼ 19万人で、そのほぼ 6割を白人が占める)で育っていますが 14才の時には孤児になっていたようです。
その彼女が 16才の時、1934年の、the Harlem Apollo Theatre の『Amateur Nights』のハシリだった頃に出場し、見事に優勝をいたしました。これが彼女にとってばかりではなく、Apollo Theatre にとっても「名誉」であったことがやがて判明する・・・
ま、なにはともあれ、Chick Webb のバンドにいた Bardu Ali( 1910-1981、シンガー&ギタリスト、Chick Webb のバンドではプロモーターでもあり、M.C. でもあった。後に西海岸に移り Johnny Otis のビジネス・パートナーとなる)がそんな彼女に目を止め、Chick Webb のもとに連れて行ったのでした。そして彼女を雇うように説得したことにより、ここにもうひとつの伝説もスタートすることになります。Lady Ella、そう、Ella Fitzgerald の出現です。

Bardu Ali の強力な推薦に、Ella Fitzgerald を雇い入れた Chick Webb でしたが、まずは 1935年の Savoy Ballroom での演奏にシンガーとして立ったのが彼女の初舞台だったと思われます。
そしてレコードもヒットし、もはや Chick Webb のバンドの主役と言っていいプレゼンスを発揮し始め、1939年に Chick Webb が死んだ時にも Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra としてツアーを続けたほどでした。
その Lady Ella も 1941年にはソロとして独立して、それ以降もますます活躍を続け、しかしそれはもはや「ズージャ」の世界でございますゆえ、このサイト、Blues After Dark が照らし出している「狭い視界」からは姿を消して行くのですけれど。

Ella Fitzgerald を世に出した Chick Webb ですが、彼の足跡はモチロンそれだけではありません。今までのところで、Louis Jordan にまつわる大体のタイムラインを載せましたが、一方の Chick Webb の側の資料では、ちょっと異なっておりましたので、そちらを尊重して綴るとこうなります。─ 1932年、Louis Jordan と Chick Webb は New York で the Jungle Band というグループとレコーディングをした、と。そして、それから Louis Jordan は Philadelphia に向って、そこで the Charlie Gaines Orchestra に加わり、それから 3年をそこで過ごし、Louis Armstrong の Victor への吹き込みにバッキングをつけていた。・・・
モチロン Louis Jordan 側の資料では、Philadelphia 行きは 1930年、となっており、そこらが整合いたしません。おまけになんと、これにも異説があり、別な資料では Louis Jordan の初レコーディングを 1929年 6月14日、The Jungle Band という名で行った「Dog Bottom / Jungle Mama( Brunswick 4450 )」である、としています。そんなデータまであることから、一見ホントっぽいですが、そのクレジットは「あくまで」 the Jungle Band だけなワケで、それでは「Louis Jordan と Chick Webb は New York で the Jungle Band というグループとレコーディングをした」の the Jungle Band が Louis Jordan と Chick Webb 以前に吹き込んでいるものかもしれませんでしょ?
さらにややこしいのは、1932年には Louis Jordan が Julie という女性( Arkansas 州 Arkadelphia出身だそうですが、結婚前の苗字も判りません)と結婚しています。と書きましたが、これにも矛盾する異説が・・・まったく別箇の資料でこんな記載に遭遇してしまいました。
「1932年、Louis Jordan は歌手でダンサーの Ida Fields と結婚した」。おいおい!同じ年に二人の違う女性と結婚?Jullie が芸名で Ida Fields が本名、なんてことは無いよね?そこらヘンのことは神のみぞ知る、ってことでしょうか。

と、ここで、もひとり、Clarence Williams のこともちょっと。このひととも Louis Jordan は演奏をしている、としてる資料があります( 1932年から)。

Clarence Williams ─ Louisiana 州 Iberville Parish の Plaquemine で 1893年の11月 8日に生まれた Clarence Williams は、ジャズのピアニストで、シンガーでもあり、コンポーザー、プロモーターでもあったようです。12才で家を飛び出し、Kersands Minstrel Company が運営する Billy Kersand's Traveling Minstrel Show に加わって New Orleans に 1906年に辿りついています。
最初は団員の靴磨きや雑用をあてがわれていたようですが、次第にその歌が認められるようになり、やがて、M.C. も任されるようになりました。
1910年代にはピアニストとしても評価されるようになり、1913年からは曲も書き始め、さらに、マネージメントにまで才能をみせていたようです。その彼が 1915年には、1888年 8月16日生まれ( 〜1943 )のジャズ・ヴァイオリニストでバンド・リーダーでもある Armand J. Piron の曲を出版する仕事まで始めています。オフィスは Chicago に設立され、1920年代の頭には New York に移りました。さらに Okeh phonograph company のために黒人のミュージシャンを手配したりする仕事も始めています。
ところで Okeh とはドイツ系アメリカ人、Otto Heinemann( 1877-1965 )が設立したレコード会社ですが、1920年代末には Columbia Records の傘下に組み入れられています。もともとはドイツ資本の Odeon Records のアメリカ支社のマネージャーとして着任した Otto Heinemann でしたが、ヨーロッパで吹き荒れる第一次世界大戦の戦乱を見て、アメリカに立地したビジネスの必要性を痛感して立ち上げた the Otto Heinemann Phonograph Corporation として 1916年に発足しています。
New York City にスタジオを確保し、プレス工場も用意し、1918年には販売ルートにも目途がつき、そこで自分の名前のイニシャルから「 OkeH 」と名付けた・・・んん?「O」と「H」は判るけど、じゃあ間の「ke」はなに?英語の「 And 」に匹敵すんのがドイツ語じゃ ke なのかなあ?あ、違う!ドイツ語では「Und」だっ!うう、判らん!
ま、それはともかく、初期の Okeh Records のロゴは OkeH と、大文字になってたんだって。
Okeh の最初の吹き込みはなんでかヴァーティカル・カット(つまり回転する円盤に刻むミゾの「深さ」で決まる方法。これだと盤の厚みによってダイナミック・レンジが規定されてしまうし、針飛びが起き易い・・・)だったようですが、1919年には普通のラテラル・カットに変えています。同時にレーベルの社名も the General Phonograph Corporation に変わりました。
よくあるポピュラーや、ダンス・ナンバーなどもリリースしていますが、Otto Heinemann は遠くアメリカに移民としてやってきた層のためにドイツはもとより、チェコスロヴァキア、ポーランド、スウェーデン、そしてユダヤ民族の音楽なども供給していたようです。ヨーロッパのレコード会社の原盤の貸与を受けてプレスしたほか、New York でも録音しています。
1920年には黒人のブルースとして Mamie Smith を録音して送り出しましたが、これが「予期せぬ」ヒットとなりました。
以来 Okeh はそのジャンルに力点を移し、多くのブルースやジャズを録音し始めることとなります。
1922年に、そのために雇われた Clarence Williams(やっと出て来た!)は「Race」部門のディレクターとして Okeh の New York スタジオで働きました。またこの時期、Okeh は Chicago にもスタジオをオープンさせ、そちらでは Richard M. Johes をディレクターとしています。それによって Okeh には King Oliver、Sidney Bechet、そして Louis Armstrong などの録音が揃いました。
また Okeh は「フィールド・レコーディング」(原資料では location recording となっていますが)を1922年から始めており、これはたぶん他社に先駆けた試みだったハズ。1924年には録音機材で「武装した」 Mobile Recording Trucks を送り出し、都会では聴くことの出来ない貴重な録音を Okeh にもたらしています。
ロケーションは年に一度あるいは二度、Louisiana 州 New Orleans、Georgia 州の Atlanta、Texas 州の San Antonio、Missouri 州 Saint Louis、Kansas City さらには Detroit などの広範囲にわたり、ジャズやブルースの初期の姿を捉えた貴重なものも少なくありません。
1926年にはマイクロフォンを使用する「電気的吹き込み」に移行し、その情報量を飛躍的に増大させています。しかし同年11月11日には Okeh が Columbia Records に買収されてしまいました。
それでも Okeh のレーベル名は 1935年まで存続しています(ただし Columbia では Vocalion の権利を失った 1940年に Okeh の名前を復活させてはおりますが)。

ところで Armand J.Piron ですが、The Olympia Orchestra( Bunk Johnson と "Big Eye" Louis Nelson Delisle を擁していた)のバンド・リーダーで、1915年からは Clarence Williams とパートナーを組んで「音楽出版」の会社を興しています。
1917年には W. C. Handy とツアーした後、Lorenzo Tio や Steve Lewis をメンバーに入れた Piron's New Orleans Orchestra をスタートさせました。このバンドは良く稼いだようで、白人用の New Orleans Country Club にまで出演しています。
1923年にはバンドごと New York に出たのですが全国区の知名度を目指した彼の目論見は成功し、三つのレコード会社からリリースしたりもしたのですが、里心がついた(?)メンバーたちの「多数決」によって(?)バンドは暖かい故郷へと帰ることになったのでした!ニュー・ヨークの冬は寒そうだもんなあ。

Clarence Williams の黒人のミュージシャンのコーディネイター手腕は他のレコード会社からも注目されるワケでして、当然、Columbia などのレーベルにも関与していくこととになります。
彼がまとめた(?)レコーディング・セッションには Louis Armstrong、Sidney Bechet、Bessie Smith などのビッグ・ネームもふくまれておりますが、1943年に彼が所有していた一切の楽曲の版権を Decca Records に売り、そのカネで「いい物件」を買い、音楽の世界からは身を引いて「お店」をひらいたようです。え?なんのお店か、って?すいません、そこまでは調べてません。おヒマな方、どーぞ。

さて、Louis Jordan に話を戻しましょ。Philadelphia の後で、1936年に彼は New York に「戻って」きました。
そして今度は the Kaiser Marshall band(異説; Kaiser Marshall と Joe Marshall のバンド)に加わり、the Apollo Theater、the Ubangi Club、the Harlem Opera House、それに the Elks Rendezvous などに出演し、シンガーとして、M.C.として、さらにバッキングで活躍していた、と言われます。そして Chick Webb の招きに応じて彼のバンドに参加したのが 1936年で、そこで Jordan and Fitzgerald はこのバンドの重要なプログラムとなっています。
もうここまでのことを考えてみても、生まれてすぐ耳にしたであろう the Brinkley Brass Band、さらに父を経て身についたのではないか、と思われる(一部の資料では、実際にこの中で演奏した、としている) The Rabbit Foot Minstrels、そして the Silas Green Ministral、さらに Jimmy Pryor's Imperial Serenaders、これらと巡ったツアーでは Ma Rainey とも一緒になった、ともいわれています。彼は、これらのヴォードヴィル系のテント・ショーで、もっともベーシックな「エンターテインメント」の基本を学んだのではないでしょうか?

すでにこの頃のミンストレルにはもはや顔を墨塗りにした白人はもういなかったかもしれませんが、音楽だけじゃない、他の出し物のバックグラウンドにはまだ旧来のアイリッシュ系やスコティッシュ系の音楽的バック・ボーンを持った楽曲が「定番の」伴奏曲として残っていた可能性は充分にあるのではないでしょか?(ま、とは言っても、それはあくまでワタクシの推測でしかないので、ショーコはございません)
おそらくそこでは雑芸からスゴ腕のミュージシャンまで、あらゆるレヴェルのパフォーマーたちが交錯し、彼の音楽の「引き出し」にいろんなものを詰め込んでくれたことでしょう。
そこにはブルースはもちろん、ジャズの要素、さらに、ありとあらゆるポップスの影響があったものと思われます。そのようにして、特定のジャンルに押し込めることの難しい、彼の豊かな才能が育まれていったのではないか?と考えています。

さらに Chick Webb に the Charlie Gaines Orchestra、Louis Armstrong、Kaiser Marshall に Clarence Williams・・・この滅多にない「メルティング・ポット」に投げ込まれた稀有な材料たちが反応し、融合して生み出されてゆく Louis Jordan ならではの音楽。

しかし 1938年から健康を害していた Chick Webb は 1939年の 6月16日に死亡しました。僅か 30年の短い生涯でしたが、彼と関わったことによって Louis Jordan が得たものは「とても」大きかったのではないでしょうか?
その死の直前 1938年に Louis Jordan は Chick Webb のバンドから独立して、彼自身の 9人編成のバンド、the Elk's Rendezvous Band を結成し the Harlem club に出演しました。
さらに「 Honey in the Bee Ball 」を Decca Records に録音もしておりますが、その前の Chick Webb 時代にも Gee, But You're Swell ( Decca 1115 )、It's Swell of You ( Decca 1213 )、Rusty Hinge ( Decca 1273 )と、ヴォーカルでのトラックを残しています。
the Elk's Rendezvous Band はやがて(一部の資料で 1939年としているものがあります)その名前を Louis Jordan and the Tympany Five と変えるのですが、このバンドには数々のプレイヤーが関わっています。
ギターでは Carl Hogan と Bill Jennings、ピアノの Wild Bill Davis に Bill Doggett、ドラムの Chris Columbus、ベースでは Dallas Bartley などなど・・・
Timpany Five とは言っても、その人数は時に 7人だったり、6人だったり、そしてホントにタマには(?) 5人だったりしてたそうですから、やはり現場に強い(?)ライヴ・バンドだったのでしょう。
しかし、ある資料では「舞台や、レコードから受ける印象とは異なって実際の彼は時間厳守で、長時間の入念なリハーサルを要求し、バンドのミュージシャンへの支払いはキチンとしていたがビジネスにおける最も厳格なリーダーの一人で、完全主義者といってよい。」と描かれています。

また別な資料ではこのバンドの音を「 Fats Waller にも似てるけど、もっとゲンキ良く、歯切れの良いリズムに、スペインっぽいとも受け取られそなカリビアン・テイストも漂っている」と表現しておりました。やはり早くからミンストレルの現場で鍛えられただけあって、ストロングで快活なリズムと「押し」の強さ(あ、誤解しないでねん、いっつも押しが強いんじゃなくて、どこで押したらいいか、どの程度、押したらいいのかを「熟知している」ってことなんですよ)を自由に操れたのじゃないでしょか。
南部のフェアやカーニヴァルに繰り出して来る老若男女を相手にするミンストレルでのパフォーマンスや Savoy Ballroom での「 Battle Of The Band 」も、根源的なエンターテインメントの実力を養成するには、またとない揺籃だったことでしょう。そして「カリビアン・テイスト」についちゃあ、ダンス・ナンバーからの影響が大きいのかもしれませんね。

1939年から 1942年にかけては、アメリカ国内の演奏旅行を精力的に組むようになり、その合間にかなりの曲数のレコーディングも行っています(って、モノはとりようですから、レコードを重視する立場に立てば、「レコーディングの合間にツアーもこなした」となるのかもしれませんが)。
Louis Jordan のステージでは必ず「コメディ」の要素を盛り込んでいたそうですから、その辺りにもかってのヴォードヴィルの影響が出ていたのかもしれません。そのちょっとしたコントやらギャグは聴衆に熱烈に支持され、それは黒人のみならず、白人の客をも失望させることはなかったようです。

その The Timpany Five は 1939年 3月29日、Keep A-Knockin / At the Swing Cats' Ball( Decca 7609 )をレコーディングしています。続いて 1941年 4月 2日には Brotherly Love/Saxa-Woogie( Decca 8560 )をレコーディング。
しかし、次の同年11月に録音された I'm Gonna Move to the Outskirts of Town は裏面に Knock Me a Kiss というカップリングでしたが、これがレース・レコードの枠を越えてビルボードのポップス・チャートの 3位にまで昇りつめました(前者は11月22日、後者は11月15日の録音)。おそらく、彼がスターとして認められるようになったのはこの時からでしょう。そして、そこからは次々とヒットが連続してゆきます。(ついでながら、この時、他に The Green Grass Grows All Around、Small Town Boy、Mama Mama Blues、It's A Low Down Dirty Shame の 4曲も録音されています)
翌1942年には 7月21日のセッションでふたたび I'm gonna leave you on the outskirts of town / It's a low down dirty shame( Decca 8638 )、What's The Use of Getting Sober / The Chicks I Pick Are Slender And Tender And Tall ( Decca 8645 )、That'll Just 'Bout Knock Me Out / Five Guys Named Moe ( Decca 8653 )、Is You Is or Is You Ain't( Decca 23630 カップリングは Five Guys Named Moe )などを吹き込んでいます。
Is You Is Or Is You Ain't は、あの Screamin' Jay Hawkins もBlack Music For White People( Demon Records FIEND CD 211 ─1990年の 8月から12月にかけて、Bizarre Records により、ハリウッド の「TRACK 2nd 」スタジオで録音され、翌'91年に発売された。Deisco ヴァージョンのI Put A Spell On Youや、なんでか日本人のオネエチャンが S.J.H. にセマる怪曲Voodoo priestessなんてえスゴい曲も!)の中でやってますが、さらに有名になったのは Five Guys Named Moe でしょ。これは彼らのテーマ曲みたいになります。
あ、そうそう、最初(1932年の)がちょっと「?」だったんで、これが正確には何番目なのかサダカではないのですが、1942年に Fleecie Moore という女性と結婚しております。

そして 1943年10月 4日には Ration Blues / Deacon Jones( Decca 8654 )、G.I. Jive( Decca 8659。カップリングは Is You Is or Is You Ain't )をレコーディング、第二次世界大戦中の Louis Jordan は、健康上の基準から兵役を免除されたため、各地に慰問活動に出掛けていますが、そこではまさに軍隊生活を歌った Ration Blues(配給のブルース)や G.I. Jive が大ウケして米軍兵士たちの圧倒的な支持を受けました。

間に You Can't Get That No More / Mop! Mop!( Decca 8668 )を挟み、1945年 4月19日に吹き込まれたのがまさにヒット中のヒット、名作中の名作、そして Song & Lyrics by Fleecie Moore、そ!1942年に結婚した奥さんの作品でもある Caldonia でございます。
もう、この曲は立派なスタンダード・ナンバーとして、実に多くのみなさんがやっておられます。そりゃもういちいち挙げてたらキリがないくらいにね(カップリングは Somebody Done Changed The Lock on My Door )。
ここで奥さんの名前が出て来たついで、と言っちゃあなんですが、ある資料に気になる記載を見付けました。
それによると、彼の私生活は(ある意味スターにふさわしく?)派手なものだったようで、しょっちゅうオンナを口説いていたんだそうです。しかも、前の奥さんと離婚する前に新しいオンナと式を挙げたり、と好き放題やってたようですねえ。それじゃあ1932年に相前後して二人の女性と結婚した、ってえのも判る(?)よな気がします。ケッキョク彼は 5回の結婚を経験したそうですよ。んー、そこらヘンも大物っちゅう感じしますねえ。ま、しかし大物だからってユルされないこともあるワケでして、三番目の妻 Fleecie は、彼のそんな行動に疑いを持ち、そしてついに彼女は肉切り包丁をとって Louis を切り刻もうとしたのです。
幸運にも、彼はしばしの療養の後で回復することが出来ました。彼は、キズが快復すると、ツアーおよびレコーディングのスケジュールを前よりも精力的にこなし始めています。

1940年代を通じて彼は実に 21曲のナンバー・ワン・ヒットを送り出して「king of the jukeboxes 」とさえ呼ばれるようになっています。
長く続いた戦争で国民が「明るく楽しいムード」を渇望して来ている時代は Louis Jordan の音楽を充分に享受する下地が出来ていた、と言えると思います。レコードは記録的な売上となり、Radio と Jukebox で彼のナンバーはバリバリかかる状態となりました。
その上さらに彼は新しい方向にも手を伸ばします。
それは「Soundies」と呼ばれる、今でいうプロモーション・ヴィデオのようなもので、短いフィルムで供給されたのです(映像もついた専用のジューク・ボックスで観ることができたそうですが、ワタクシはモチロン現物を見たことが無いので伝聞に過ぎません)。Jordan のカンペキにセット・アップされたステージ・アクトはまさに「映像向き」だったようで、けっこう成功したみたいです。
この Soundies でフィルム業界と関係が出来たことから、映画そのものへの進出も実現しました。『Follow the Boys』、『Meet Miss Bobby Socks』、『Swing Parade of 1946』への出演がそれです。そして、それがまたレコードの売れ行きに結びつく、という理想的なリンケージが成立していた時代でした。
Caldonia に続くBuzz Me、Choo Choo Ch' Boogie、Ain't That Just like a Woman、Ain't Nobody Here but Us Chickens、Boogie Woogie Blue Plate、Beans and Cornbread、Saturday Night Fish Fry、Blue Light Boogie と続くヒットで、1940年代は頂点に向う上昇カーヴを描いて過ぎて行きました。
でも、いわば彼もその隆盛に大いに寄与している(控え目な言いかたざんす)、と言うことが出来る次の「波」、ロックン・ロールの時代はもうすぐそこまで近付いて来ていたのです。

Rock'n'Roll はいかにして生まれたのか?また、Rock'n'Roll の始祖は誰か?なんてえ起源学的視点を「ほったらかし」にして言いますが、少なくとも、この Rock'n'Roll がこの世に生を受けた時から、既成概念に対して「反抗的」な「怒れる若者たち」の存在が表面化し、Rock という精神が醸造され始めたのではないでしょうか?
いわば親の世代が慣れ親しんだ文化への「対抗意識」を鮮明に持った「音楽・美術・文芸」の台頭がそれぞれのジャンルで尖鋭化し、そして大抵はその前の世代の眉を顰めさせる・・・
音楽における Rock ってのは、「そうゆうもの」だ、という考え方があります。そうだとすると、我々が懐かしむストーンズもゼップもヴェルヴェット・アンダーグラウンドも「あの時」のロックであって、今、それらの音が「敵視(?)」し、乗り越えようとした旧来の価値観そのものが散逸してしまっている以上、もはや「ロックではない」ということになります。
てなことを断言しちゃうと、おそらく非難轟々、抗議のメールや書き込みが殺到するでしょうが、「ロック」と「ロックじゃない」の境界線は時代とともに「常に」移動し続ける、ってえ捉え方も存在する、ってえことを判ってほしいのです。
新しい音が世に出るごとに、その時々の世代が、これこそ、これまでの音楽では満たされなかったなにかを持った音楽だ!という共感とともに、それを同時代のロックとして共有してきたのではありませんか?
そして、前の世代の音楽を「ダサい」とか「かったるい」と軽蔑し、しかしながら次の世代の音楽に対しては、「なってない」とか「ウルサイだけ」とか「理解できん」と思ったことはありませんか?その時がカウンター・カルチャー的な意味合いでの、「ロック/非ロック」の境界線が「あなたの上を通り過ぎた瞬間」ということになるのかもしれませんね。

もちろん「かってのロック」に価値なんて「無い」と言うことではありません。それはその人にとっては、その音楽とともに「不条理なオトナの世界」に反抗するための「武器」であり、立てこもる「砦」であり、同士を識別するための「暗号」であり、さらに心情的なものと密接に結びついた「かけがえのないもの」のハズです。
でも、ロックという一種のイノヴェーションがそれぞれの時代に「あった」ということを認識しないと、過去の「転機」も、これからの「変化」も認知できない、「ワシの時代がロックの一大転機じゃった」という(たしかにそのヒトにとっちゃそうなんだけど)自分本位な歴史観で終ってしまうんじゃないでしょうか?
てなことを長々と書いて来たのも、我々はプレスリーが登場した時の青少年とその親たちとのモノ凄〜い「落差」や、モッズ・ヘアに対する親たちの「嫌悪」、パンク・ムーヴメントに対する「警戒」など、それぞれの時代の変わり目にあった価値観の相剋を「自分の時以外は」軽視する傾向にあるんじゃないか、と思われるからです。
それのどこが悪い?と言っちゃえばそれまででございますが、でも時々は、いま現在の「境界線」はどのヘンかな?と眺めてみるくらいの好奇心は持っておきたいものだなあ、と思うのですよ。

1942年から、その Timpany Five を解散する 1951年にかけて、Louis Jordan は実に 57曲(!)を R&B チャートに送り込みました。I'm Gonna Move to the Outskirts of Town に始まり、Let The Good Times Roll、Buzz Me、Five Guys Named Moe、Is You Is or Is You Ain't( Ma' Baby )、Ration Blues、G.I. Jive、Choo Choo Ch' Boogie、Ain't That Just like a Woman、Ain't Nobody Here but Us Chickens、What's The Use Of Getting Sober、Beans and Cornbread、Saturday Night Fish Fry、Boogie Woogie Blue Plate、Blue Light Boogie・・・
この期間に稼いだカネで(ってのは単にワタクシの「下衆のかんぐり」に過ぎませんが) 1940年代末あたりに彼は Arizona 州 Phoenix に「家」を買っています。そして Timpany Five を解散した 1951年にはこりもせず(?) 4度目の結婚! この時の相手は Vicky Hayes というダンサーでした。

1950年代の初頭まで、彼のレコードのセールスも Radio でのオン・エアも常にトップ・ランクを維持していた、と言って良いでしょう。その勢いに陰りが見え始めたのが 1953年あたりからでしょうか(ここら、資料によってバラつきがあって、もっとも早い時期を挙げているのは 1940年代末、としているものまであります)。

と、ここで、トツゼンではございますが、ちょっと時間を遡らしていただきます。1925年 7月 6日、Michigan 州の Highland Park ってえとこでウィリアムとモードのヘイリー夫妻の子供として、2才上の姉の下に生まれたビル君、父の仕事のカンケーでケンタッキーからデトロイトへと移っています。英国からの移民だった母はピアノの教室を自宅で開いておりました。でも家族はデトロイトからさらに Pennsylvania 州の Chester にまで流れていった模様です。

父のほうはバンジョーとマンドリンを弾き、耳コピの才能に恵まれていた(逆に言うとワタクシ同様、譜面が読めなかったワケ)ようです。ビル君は 13才の時にギターをあてがわれ、父からコードやポジションを学んでいたらしく、この時から彼は音楽でスターとなる日を夢見るようになったのでしょう(?)。
1940年の 7月、学校を卒業した彼は Bethel Springs でミネラル・ウォーターのビン詰め作業の仕事につきました。このころのペイは 1時間 35セントというものでした。
1943年、彼は Candy Kisses という曲を初吹き込み。そっから 4年間は C&Wバンドのギタリスト&シンガーとして過ごしています。1946年には、当時 Booth's Corner にいた両親のもとにひょっこり戻っています。着くなり母に言ったのは「俺がここにいるって誰にも言わないで」で、30時間ブっ通しで眠り続けたんだとか・・・

てなことはどーでもいいんですが(?) 1946年にはチェスターのラジオ局でホストを始め、同時に幼馴染みの Dorothy Crowe って女性と結婚もしています。1947年には WPWA のディレクターになり、バンド The Four Aces of Swing を結成しました。1949年には解散していますが、すぐに新しいバンド The Downhomers を結成し、C&W ナンバーを録音しています。でも、このバンドからは彼が抜けちゃうんですよねー。
1950年の夏、今度は Bill Haley & His Saddlemen を結成し、Philadelphia の Ed Wilson の独立レーベル Keystone から 2枚のシングルを出しています。で、このメンツがそのまま「あの」 The Comets になったのでございますよん。

WPWA のディレクター Bob Johnson はグループ名を「Saddlemen」から「Comets」に変えるようにアドヴァイスした、と言われていますが、それは「ハレー彗星」から来た語呂合わせだったそうです。なんだかなあ・・・
ま、それはともかく、1952年の Thanksgiving Day の直前にその名前を Bill Haley and his Comets と変えました。そして吹き込まれた「Rock The Joint」は 75,000枚を売るヒットとなっています。続く 1953年には Crazy Man Crazy がビルボードのポップス・チャートの 20位入り。
そして 1954の 4月 1日、ビル君とメンバーの Myers は Decca の Milt Gabler のニューヨーク・オフィスに顔を見せ、契約について折衝を始めています。そこで合意したのは売上の 5%の印税、最初のロイヤリティとして 5,000ドルを支払うこと、また、各リリース毎に各地の D.J. 2,000人にプレス・リリースを行うこと、さらに、ビルボード誌とキャッシュ・ボックス誌の両方に見開きで広告を掲載することでした。
実はこの Milt Gabler ってのは直前まで Louis Jordan のプロデュースを手がけていたひとなんですよ。
ここに Bill Haley And His Comets の Rock'n'Roll の時代が幕を開けるワケです。

1940年代を上昇カーヴで走り抜けて来た Louis Jordan でしたが、1950年代に入ると、その売上もビミョウに失速し始めた、と言われています。モチロン、そのすべてを Rock'n'Roll の台頭のせいに帰するのは、どうかとは思いますが、やはり時の流れを誰も止められないのと同様に、確実に世代交替は進んで行くのですね。
その Louis Jordan が Decca との契約を解いたのは 1953年のことでした。

さて、同じ1953年のビル・ヘイリーと彼のコメッツ Crazy Man Crazy をして Rock'n'Roll の誕生、とする説もありますが、誰もが知っているのは 1954年 4月12日に Pythian Temple Studio で録音され、発売されるやすぐさま 75,000枚を売り切り、さらにほぼその一年後、映画『暴力教室(原題 The Blackboard Jungle )』のサウンド・トラックとして使われたことにより全世界的に知られるようになった Rock Around The Clock の方でしょう。
Rock Around the Clock 自体は 1953年に Sunny Dae And His Knights が既に吹き込んでいたものです( 1952年とする資料もあります)作者は Max C. Freedman と Jimmy DeKnight。ところが、この Jimmy DeKnight ってえひと、本名は James Myers、そ、Decca ニューヨーク・オフィスで密談を交わした(って人聞きの悪い・・・)三人のうちのひとりなんですよん。バンド・メンバーでソングライターかつプロモーターってのが実態なようでございます。

てなワケで世は「あからさまに」ロックンロール・エイジへと突入する・・・と。しかしまあ、考えてみれば、それはなにも「この」ビル・ヘイリーじゃなくても良かったんじゃないのかなあ?だって、もう時代はこのヘンの音を受け入れる素地ができてたんですから。
この Rock Around the Clock、確かにセンセーションみたいなもんを起こしたと言えなくはないですが、でもそれはもっぱら映画との相乗効果と捉えたほうがいいんじゃないの?
曲をじっくり聴いてみれば判るように、そのリズムにしてもメロディにしても Louis Jordan が「とっくに」自家薬籠中のものとしてたラインで、じゃ、どこが違うか?と言うと、歌が「モロ、白人である」ってとこでしょ。
これは人種差別的な意味ではなく、アメリカの聴衆、中でも若い層がそこに「新味」を嗅ぎとったのではないか、と。 ま、これはワタクシ個人の思いつきでございますから、ふ〜ん、そんな考えかたもあるんだ?程度にお聞き流しくださいませ。
ビル・ヘイリーと彼のコメッツはその後 Joe Turner の Shake, Rattle And Roll をカヴァーし、商業的には「ロックンロール初の」ミリオン・セラーとなり、続く See You Later Alligator も僅かひと月でミリオンをトッパしております。でもその彼らはすでに 30才のリッパな「中年デブ」になっており、もはや「怒れる若者たち」とはお世辞にも言えない状態だったのでございます。
あにはからんや(うわっ!古語的表現!)アっという間に Little Richard や Jerry Lee Lewis、Gene Vincent、そして Elvis Presley に追い落とされ、若者の支持を失っていきます。
ケッキョク、(とくに映画とのからみで)記念碑的作品と言える Rock Around the Clock ですが、そこには再生産につながるようなクリエイティヴなものは殆ど「無かった」とするのは言い過ぎでしょうか?
またその後の何曲かだって、もはや誰の記憶にも残っていないんじゃないの?

一見、そんなロックンロールのブームに屈したかに見える Louis Jordan の方は、逆に名曲 Caldonia をはじめとする数々の演奏で現代にまで及ぶ大きな影響力を見せているんですから面白いですねえ。
ビル・ヘイリーが(皆無とは言わないけど)その後の音楽にどんな影響を与えられたか、を考えると、この対比は実にドラマティックですらあるような気がします。
それを象徴するかのごとく、1950年代末からのビル・ヘイリーは、ロックンロール・リヴァイヴァル・ショーに出演するのみとなっていったのでした。(ついでながら「彼のコメッツ」のほーは Comets という名前自体の版権をドラムの John Lane が持ってて、解散とともに「持ち去った」ため、ビル・ヘイリーは「彼のコメッツ」というバンドを持つことが出来なくなっております。とこれまたあらずもがなの雑知識)

その頃 Louis Jordan は Decca との契約を打ち切った後、Aladdin Records( Los Angeles の Hollywood に本拠を置くレコード会社で、Eddie、Leo、そして Ira の Messner 兄弟によって 1946年に設立されました。とは言っても資料によっては Ira の名前を含んでいないものもあります。当初は Philo Records という社名だったらしいのですが、いづれの由来も、また改名の理由、時期ともにまだ調べておりません。そのうちまた Aladdin がらみのアーティストが出てきたときの楽しみにとってあるんだから「ほっといて」ちょうだいね。)に Dad Gum Ya Hide Boy、Messy Bessy、If I Had Any Sense などの Louis Jordan らしいナンバーを吹き込んでいます。しかし、それをマス・セールスにつなげるには、当時の「今日的な」テイストに欠けていたのでしょうか、Aladdin の経営陣が満足するようなセールスを上げることは出来なかったようです。
そこで彼は 1955年に RCA のごく短命だった「 X 」レーベル(フツーの検索ではまったく出ても来まへん)で up-to-dated な「Rock'N' Roll Call」でチャレンジしてもいます。しかし、それを「成功させたのは 1956年、Mercury Records( 1945年に Irving Green、Berle Adams、そして Arthur Talmadge によって Chicago で発足したレコード会社です。ブルースの他にもジャズやクラシック、さらにはロックンロールにカントリーにまで手を広げました。Chicago と St.Louis の二箇所に工場を持ち、自動プレスのラインに 24時間マルチ・シフトの勤務態勢を整えて大量生産に成功し、すぐさま他の Columbia、Decca、RCA、Victor に伍するメジャーなレコード会社に成長しています。傘下には Blue Rock、Cumberland Records、Emarcy、Fontana、Limelight、Phillips、Smash、Wing などを収めていました。1961年には、オランダ Philips との相互供給契約を締結しています。さらに Philips は、アメリカでのベースを拡張するために Mercury とその傘下のレーベルを買いとり、1962年には、Philips がドイツ Grammophon と合併して、1970年代の初めには Polygram となっています。あ、Phillips と Philips、小文字の「L」がひとつ多いとこで違うんざんす)における Quincy Jones との結びつきを得てからだったのではないでしょうか。
彼は Louis Jordan の素材(つまり、かってのナンバーね)を「時代に合わせて」アレンジし、Mickey Baker のリード・ギターと、Sam "The Man Taylor のエグい(?)サックスを盛り込んだバリバリの(?) Let the Good Times Roll、Salt Pork, West Virginia、Beware で Louis Jordan を再び第一線に送り出したのでした。
話はちと脱線いたしますが、Micky Baker に Sam "the Man" Taylor と言えば、そりゃもう Screamin' Jay Hawkins でしょう!1955年の Mercury #70549 This Is All /(She Put The) Wamee (On Me)とかね。ま、そっちは Quincy Jones じゃなく、Leroy Kirkland のプロデュースだと思いますが。

ところで、Louis Jordan のサックス・プレーヤーとしての一面が、1957年の The JAMF のアルバム Man, We're Wailin' で聴くことが出来るようです。
そしてその同じ年、Louis Jordan は生まれ故郷の Brinkley を訪れています。名誉なことに「Louis Jordan Day(!)」が制定されたからでした。

1960年には 9年前に結婚した Vicky Hayes と別れています。その後 1960年代はイギリスやアジア地区のツアーなどに出ていっておりましたが、1966年、彼にとっての最後の結婚を、これもまたダンサーの Martha Weaver としています。ま、このヘンも Screamin' Jay Hawkins と相通じるところがあるよな気がしますねえ。いわば Louis Jordan の持っていたナチュラルな「コミカルさ」を「ジョークの域」にまで堕落(?)さしたのがスクリーミン・ジェイじゃないか?ってえのは言い過ぎでしょうか?

Decca を離れ、 Aladdin Records (1954 )、RCA の "X" レーベル(1955 )そして Mercury Records (1956-1957 )へと変わっていった Louis Jordan でしたが、やはり 1940年代後半の勢いとは比較にならなかったようです。
時代は、もっとアップ・テンポでストレート、騒々しい音を求めていたようですが、逆に彼のナンバーは Chuck Berry によって、1946年の Ain't That Just Like A Woman、1948年の Run, Joe などが新たな生命を吹き込まれています。 そして彼の曲たちが棲息し続けるのはむしろロックン・ロールよりもブルースの世界でしょう。
前にも書きましたが Caldonia など、ビル・ヘイリーからデール・ホーキンス、カール・パーキンスという「新」時代のミュージシャンもレコーディングはしていますが、むしろ印象に残っているのは James Cotton であったり、あるいは Blues Brothers、はたまた Albert Collins に Clarence Gatemouth Brown、B.B. に Memphis Slim、Clifton Chenier・・・あ、Woody Herman や James Brown ってのもありますねえ。

そうそう、Woody Herman というと、世に出た(つまりリリースされた)最初の Caldonia らしいんですよ。モチロン、Louis Jordan がオリジナルで、彼は 1944年の夏あたりに米軍の記念式典のアトラクションとして Caldonia を演奏した、という記録が残っているのですが、1945年の 2月には Woody Herman and His Thundering Herd が先に Columbia Records に吹き込み、そのためか、Woody Herman にとってもこの曲は特別なものとなったようで、1976年にカーネギー・ホールで行われた楽団の 40周年コンサートの最後を飾ったのは 12分にも及ぶこの Caldonia のスペシャル・ヴァージョンでした。

その Woody Herman の Caldonia は 1945年 5月 5日のポップス・チャートに登場しますが、それを追い掛けたのは、これも Louis Jordan ではなく、Erskine Hawkins が RCA Victor に吹き込んだヴァージョンでした。こちらはその一週間後にチャート・イン。
ご本尊の Louis Jordan が Decca に吹き込んだ元祖(?)Caldonia がチャート上で前二者を追いはじめたのは 6月になってからで、そしてポップス・チャートの結果だけを見れば、Woody Herman が最高 2位、Erskine Hawkins が12位、Louis Jordan が 6位、ただし Race records チャートでは Woody herman が 2位どまりだったのに対し、Louis Jordan は 1位となり、チャートに 6ヶ月もとどまり続けたのです。
それでも、この最初のリリースのタイミングのせいで、Caldonia といえば Woody Herman という印象を持ったひとも多かったかもしれません。

ところで、この Caldonia については、Sippie Wallace( Woman Be Wise / Sippie Wallace をご参照くださいませ)が、彼女の 1920年代の作品「Caldonia Blues」からその想を得たものだ、として著作権侵害のかどで告訴していますが、最高裁はその著作を Louis Jordan(つまり Fleecie Moore )に帰するものとして訴えを退けています。

Louis Jordan はやや安定しない健康状態の中で演奏を続け、時には Ray Charles の Tangerine Records や Paul Gayten の Pzazz、Johnny Otis の Blues Spectrum などのレーベルに吹き込みをするなどして晩年を過ごしました。
1973年にはいまいちど Caldonia を吹き込んでいますが、彼のラスト・レコーディングはトランペッターの Wallace Davenport の Sweet Georgia Brown に参加したものです。その後、健康状態が悪化し、1975年 2月 4日、心臓発作により死亡しています。

さて、「ブルースとは?」という枠が先にあって、それに当てはまるミュージシャンをブルースマンという。
・・・そんな捉え方をしたのでは見落としてしまうものもあるのではないか?ってのがワタシの考えです。
むしろひとりひとりのミュージシャンに「ワタシが」ブルースを感じたら、そのミュージシャンは「ブルースマン」だし、そんなブルース・マンの集合する確率波のゾーンみたいなものとして「ブルース」がある、と。

この Louis Jordan を「狭い」視点からブルースマンに入れない考え方もあるのは理解できます。でも、ワタシが好きなのは「ブルース」という概念なんかじゃなく、こちらの心を捉えるひとつひとつの楽曲だし、そのミュージシャンの「あり様」がいいワケでございますから、ブルースがどうこう言う前に、これを聴いてココロが踊るかどうかでしょ。
およそ、自分でもブルースをやってるひとだったら、一度は Caldonia をやりたい、と思ったことがあるんじゃないの?
たとえ Louis Jordan のじゃないにしてもね。そんな風に彼が起こした波紋は今だって続いているし、これからだって続いて行きそうです。

Louis Jordan の音楽がなぜこれほどにミリョクがあるのか?
ミンストレルやジャズとの接触、ダンス・ミュージックの経験等々、分析すれば色々な要素が挙げられるとは思いますが、最後は分析のしようがない、それこそ「彼だから出来たんだ」という事実の前に行き着くような気がいたします。
それはプロデュース能力なんていう「後天的」ものじゃなく、もっと根源的ななにか、そう、「生命力」に近いところから出てくるものじゃないでしょうか?ま、ここでなんだかんだ言うより、聴くほうが早いよね。

中でも、Decca で上げ潮に乗っていたころの作品あたり、いかがざんしょ?
1941年の T-Bone Blues、1942年の Knock Me A Kiss と I'm Gonna Leave You On The Outskirts Of Town、1943年には What's The Use Of Getting Sober、Ration BluesにFive Guys Named Moe、1944年が G.I. Jive と Is You Is Or Is You Ain't( Ma Baby )、1945年には Mop Mop と You Can't Get That No More そして Caldonia!あ、もひとつ Somebody Done Changed The Lock On My Door もね。
第二次世界大戦が終った 1946年には Buzz Me、Don't Worry 'Bout That Mule、Salt Pork, W. Va.、Reconversion Blues、Beware、Don't Let The Sun Catch You Cryin'、Stone Cold Dead In The Market( He Had It Coming )、Petootie Pie、Choo Choo Ch'Boogie、That Chick's Too Young To Fry、Ain't That Just Like A Woman、Ain't Nobody Here But Us Chickens、Let The Good Times Roll という大量のナンバーが送り出されています。
続く 1947年は Texas And Pacific、Open The Door, Richard、Jack, You're Dead、I Like 'Em Fat Like That、I Know What You're Putting Down、Boogie Woogie Blue Plate、Look Out、Early In The Morning など。
1948年が Barnyard Boogie、How Long Must I Wait For You、Reet, Petite, And Gone、Run, Joe、Don't Burn The Candle At Both Ends、Daddy-O、Pettin' And Pokin'。
1949年には Roamin' Blues、You Broke Your Promise、Cole Slaw、Every Man To His Own Profession、Baby, It's Cold Outside(この曲は Ella Fitzgerald と一緒に)、Beans And Corn Bread、Saturday Night Fish Fry。 1950年 School Days、Blue Light Boogie、I'll Never Be Free(これも Ella Fitzgerald と一緒に)、Tamburitza Boogie。1951年の Lemonade、Tear Drops From My Eyes、Weak Minded Blues・・・

こうして見るとスゴいですねえ。壮観!
さて、もし、Louis Jordan を一枚もお持ちじゃなくて、買ってみたいな〜って言うんでしたら、Let The Good Times Roll: The Anthology 1938-1953 MCA Records をおススメいたします。輸入盤ですが、アマゾンあたりでオーダーできますよん。


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