In the Beginning

まず、ブラック・ミュージックのファンには縁遠いところから話を始めることにいたしましょう。 つまり、それはもっぱら、いまのところ白人の社会での物語なのでございます。
1950 年代の前半、朝鮮戦争( 1950-1953 )が一応の決着をみた時期とも重なりますが、Memphis のダウン・タウンに the Goodwyn Institute Auditorium( 1907 年に「女性に法曹関係の仕事はムリだ」という偏見から、資格を持っていながら実に 7 年間も待機を余儀なくされた Marion Griffin が彼女の弁護士事務所をようやく開設したのが、Madison 通りと三番街の南西の角にあった、この the Goodwyn Institute ビル内にでした。彼女はその後 1923 年に Tennessee 州議会の議員に選出された最初の女性でもあり、辞任した 1949 年まで、そこに事務所をおいていました。このビルはその後 the First Tennesseee Bank Building となっています)というホールがあり、そこでひとつのエピソードが生まれました。

Joe Manuel

Memphis の放送局で 1930 年代から 1940 年代にかけてヒルビリーのスターだった Joe Manuel( Alabama 州の農村部で生まれ、まだ小さいときに家族とともに Arkansas 州のデルタ地帯に移り、そこで少年時代を過ごしています。一家は小作農だったのですが、彼はまだ十代のうちに家を出てショー・ビジネスの世界に身を投じたようで、Dave Perkins というヴォードヴィル・コメディアンのもとで歌とギター、そして聴衆を楽しませる術を学び、1930 年代の初めには Arkansas 州の放送局に出演するようになっていました。どうやら 1935 年までに Memphis に移って来たらしく、今度は Memphis の the Claridge Hotel の WHBQ に出演しています。その後 the Gayoso Hotel に WHBQ は移ったりもしていますが、けっきょく 1950 年まで Joe Manuel は WHBQ に出演し続けました。その間に彼は中西部でもっとも名を知られた D.J.となっています)というひとがいたのですが、その彼の番組を聴いて育った若い世代がオフの時間など、次第に彼の周囲に集まり始めるようになり、その中には Joe Manuel が認めるような才能を持った若者も散見されました。
そこで彼は、この若者達もそれなりの機会を与えられれば、リッパに音楽で喰っていけるんじゃないか?と考えたんでしょうねえ。
そのために必要なのは、彼らの演奏をより多くの人たちに聴いてもらえる公開の場だ、と言うことで彼が交渉して獲得したのが the Goodwyn Institute Auditorium だったのです。このアイディアには元ネタがあり、それは C&W 界ではきわめて有名な Nashville のthe Grand Ole Opry がモデルであることはこりゃもう誰でも判りますね。
そこで、ライヴは毎週土曜日の宵に行うことになり、The Saturday Night Jamboree の名で開催されることになりました。それが 1953 年のことです。

Saturday Night Jamboree

その初回は Joe Manuel と彼のバンド、そして彼の旧友でもあった Marcus Van Story( もともとはギタリストだったようですが Bass Fiddle に転向したそうです。Bass Fiddle っちゅーのがウッド・ベースのことなのかもしれませんが、そこらは不明です。そして SUN Records のスタジオ・ミュージシャンになりました。後に The SUN Rhythm Section のメンバーとして各国をツアーしている)とそのバンドからなっていました。
やがて出演者が増えるにつれ、彼らの役割は司会や狂言まわし的な存在にと変化していったようです。それでも、毎回、サイゴをシメたのは Joe Manuel だったようですが。
このThe Saturday Night Jamboree は、始まってすぐに出演者が集まり始めたようで、近隣のミュージシャンにとっては大切な存在だったのでしょう。そして、その話題が地域に浸透していくにつれ、それを聴きにくる聴衆も加速度的に増え続け、すぐに公会堂は満員御礼状態になったそうです。

Local Stars

おそらく、その盛況ぶりは言い出しっぺの Joe Manuel も想像し得なかったほどではないでしょうか?
そんな状態でしたから、このThe Saturday Night Jamboree から巣立ったミュージシャンも少なくはなく、(ブラック・ミュージック畑のワタクシにはどれも「?」なお名前ばかりなのではございますが)例を挙げると、Johnny and Dorsey Burnette、そしてそれに Paul Burlison が加わって結成された the Rock N Roll Trio( Ted Mack の『Amateur Hour』で 3度優勝、さらにグランド・チャンピオンも獲得し、CORAL Records と契約、「Tear It Up 」のヒットがある)、Eddie Bond( Mercury Records と契約。「Rockin' Daddy 」のヒットがある)などは、ここで初めて大衆の前に姿を現した、といっていいし、Charlie Feathers( Meteor Records と契約。初期の「ロカビリーの」ヒットと言われる「Tongue Tied Jill 」を出しています)は常連でした。その当時は主にゴスペルを歌っていた Johnny Cash は 1954年に入ってからの常連で、SUN Records と契約する前の話になります。
Lee Adkins(後に SUN Records と契約、と資料にはありますが、現在のところ Discography 上では確認できませんでした。ケッキョク録音にまでは至らなかったのでしょうか?)、Bud Deckleman( Meteor Records と契約、カントリーのヒット「Day Dreaming 」がある。また the Louisiana Hayride radio show でスターになった。The Complete Meteor Rockabilly And Hillbilly Recordings─ Ace 2750で「Day Dreaming 」が聴けます。他に Charlie Feathers も収録)、Harmonica Frank Floyd( SUN Records と契約。エルヴィスの「That's All Right Mama 」に先駆けること 3週間、「Rockin' Chair Daddy 」をリリース。それをもって彼を「ロケンロー」の始祖、とするひともいるようですが、いかがなものか)、Barbara Pittman( SUN Records と契約、「Two Young Fools in Love 」のヒットがある)、The Lezenby Twins( Pepper Records と契約。「Ooh Ooh La La I Fooled You 」はトップ 40に入った)、Lefty Ray Sexton( 1950年代を通じてバンド活動をしていたが、これといったヒットは無いみたい)、Lloyd (Arnold) McCoulough(このひとはちょと「?」なんですが、カナダでスターになったんだって)、Tommy Smith( Decca Records と契約し自作の「I'm a Fool 」がヒット)、Major Pruitt(後に D.J.となる)、Johnny Harrison( Nashville に移り、ソングライターになってます)に Larry Manuel(このひとは Joe Manuel の息子。Stomper Time Records から「Don't Try to Call Back Tomorrow 」をリリース)・・・これがみなThe Saturday Night Jamboree の出演者だったのです。

Meltin' Pot

そのようにスター(と言われても、ワタシゃあ、そっち方面に詳しいワケじゃないので、受け売りだす)を輩出したThe Saturday Night Jamboree ですが、それが地域のミュージシャンに与えた影響としては、単にデビューの機会を与えた、というだけには止まりません。その役割の中で、もしかすると一番大きかったのではないか?とも思えるのが、バック・ステージ、つまり楽屋などでのミュージシャン同士の交流だった、と言われています。
いずれもウデに自慢の若者たちが、かと言ってヘンにライヴァル心を剥き出しにガンを飛ばし合うこともなく、それどころか、新しいワザなどを和気アイアイと教え合ったりしていたようで、それが地域全体のレヴェルをアップさせていったようです。
また他の出演者の新しい音はすぐ話題となり、それを採り入れてまた前進してゆく。そして、そのヘンが判る敏感な聴衆も揃っていたことからThe Saturday Night Jamboree は Memphis の音楽にとってきわめて重要な存在となっていったのです。

Rockabilly

そのようにして、単なる音楽好きのアマチュアのレヴェルから「レコーディング・クォリティ」に達するようになり、次々と Memphis 周辺のレコーディング・スタジオなどでその音楽を吹き込むようになり、後になって、それらの音群は Rock と Hillbilly の合成語である Rockabilly と呼ばれるようになったんだとか。ただし、このヘンの「ロケンロー」の起源とか、「ロカビリー」の始まりは、ってえ話題になると議論百出、喧々囂々、我田引水、酒池肉林、ってなワケでいつどこからどのよーな刺客が現れるかもしれないので、「あくまでも伝聞である」とおコトワリいたしておきましょ。

Marshall Erwin Ellis

さて、このよーにしてThe Saturday Night Jamboree が思いのほか成功してくると、Joe Manuel は出演希望者の選別やら、各方面での調整などに忙殺されるようになってしまい、ハッキリ言って彼の手に余るようになって来たため、マネージャーをつけたい、と考えるようになりました。
そこで彼が交渉したのが、古くからの親しい友人、Marshall Erwin Ellis( インディーズの、なんてゆーと最近のニホンの独立系みたいだけど、自分のレーベル RIVERFRONT と ERWIN を所有するプロデューサーでもあり、Kimball Coburn のヒット、「Dooby Oby Pretty Baby 」を手がけている。またあまり知られていない Hoyt Axton という歌手の「It's a Little More Like Heaven Where You Are 」もプロデュースしている。この曲はカントリーのヒットとなり、その後ほぼ 40年にわたって彼にロイヤリティをもたらした!)でした。Ellis は理髪店のオーナーでもあり、一時は自動車の販売にも手を出したことのある「ビジネスに強い」タイプのニンゲンであり、説得の結果、彼のマネージメントを引き受けてくれることになったのでした。それ以降 Ellis は the Saturday Night Jamboree にとって様々な役割を果たす存在となったのです。
この Marshall Erwin Ellis はまた出て来るから覚えといてねん。

The End of Jamboree

ところが 1954年の末に the Goodwyn Institute のオーナーから申し出があり、公会堂を補修するために、しばらくの間、使用出来なくなる件に関して理解を求めてきました。そこで Joe Manuel は、まず、適当な代替施設が見当たらない上、主な出演者たちもレコード会社との契約を果たしたことだし、そこから生まれたヒット曲がオン・エアされている状態なので、そこで The Saturday Night Jamboree の幕を引くことを決断したのでした。

その 2年間で確実に Memphis の音楽状況は変わり、別に彼がそう意図したワケではないにせよ、結果として Rockabilly の花を咲かせたことになるのかもしれません。
The Saturday Night Jamboree に登場し、スターとなって行った者たちばかりではなく、そのバンドのメンバーとして支えていた層もまたレヴェルをグンと上げて、Memphis の複数のレコーディング・スタジオでのセッション・ミュージシャンとして、このエリアの音楽的土壌をより一層豊かなものにしていったのではないでしょうか。
The Saturday Night Jamboree のバック・ステージ、楽屋で生まれた音たちが、後に世界に出て行くことになった、とまで言い切るのはちょっと大袈裟かもしれませんが、しかるべき時期に、しかるべき機会を与えられて世に出た才能を思えば、この 2年が Memphis の行方を決めた、と言ってもいいのかもしれませんね。

Jamboree をやめた後の Joe Manuel は次第にショー・ビジネスからは身を引いて行きますが、それでも D.J.は続けていたようです。Marshall Erwin Ellis は、彼のマネージャーをやめましたが、二人の友情は変わることなく、1959年の Joe Manuel の死まで続きました。

Estelle Stewart

Estelle Stewart は 1918年(あるいは 1919年)に Tennesseee州 Middleton( Memphis から State Highway-2 で東へ 90km くらいの街です)で Ollie と Dexter Steweart という両親のもとで生まれ、16才までその街で成長しました。音楽、なかでもポップスが好きで、家族でゴスペルのカルテットを組み、そこで歌い、オルガンも弾いています。

一方、1923年の 1月 5日、遠く離れた Alabama 州 Florence でひとりの男の子が生まれています。それこそ後に SUN Records を興すことになる Sam Phillips でした。

Estelle は 1935年には教員資格を得るために Memphis の州立大学に入っています。そこで知りあったのが、将来の夫となる Everett Axton でした。
彼女は Middleton に戻り、12才年下の弟 Jim の一年生の時の「先生」となっています。
1941年には大学で知りあった Everett と結婚して Memphis に移り、自らの学校(と資料ではなっていますが、むしろ「教室」に近いスケールかもしれません。あるいは「私塾」みたいなものか?)を持って教壇に立っています。
やがて子供が生まれると、彼女は家庭に入り、育児に専念したようですが、その二人の子供があまり手がかからなくなった、ということからか、1950年には the Union Planter's Bank に出納係として勤め始めています。
そしてそこに弟の Jim も Middleton から出て来ました。この Jim は 1930年 7月29日に生まれています。父の Dexter は農園を経営し(そ、Stewart 家は「白人」なのですよ)、サイド・ビジネスとして大工や煉瓦職人としての仕事も受けていたようですが、その父が Jim に 10才のときにギターを買ってくれました。彼は毎週土曜日に放送されていた Nashville からの the Grand Ole Opry を聴いて( The Saturday Night Jamboree のモデルとなったヤツね)、耳から学んでギターを練習していたようです。
また時には友人と地域のスクエア・ダンスの催しなどでも演奏していたようですが。

1945年の 6月には、その Jim より 7才年上の Sam C.Phillips も Memphis のラジオ局、WREC のアナウンサー兼メインテナンス技術者として働き始めています。
同じく1945年の Los Angeles の街で、生まれ育った遥かな Oklahoma 州 Tulsa から 1942年に California 州に移ってきて、まず Jukebox のサーヴィスの仕事で業績を伸ばし、やがてはそれらのジューク・ボックスに供給するシングルの入手難から、そこにビジネス・チャンスを見出したとされる Bihari 兄弟が、自らひとつのレーベルを立ち上げました。
当初は Modern Music label と称していたようですが、やがて Modern Records となり、それ以降さまざまな支線として 1950年には RPM、1953年の Flair、1954年には Crown を計画し 1957年に実行、1958年 Kent、1959年には Riviera と、一大グループの様相を呈してゆきます。
その Bihari Brothers の四人、Saul、Jules、Joe、そして末っ子 Lester が分担して事業に当たっていたようですが、Lester だけは重役というよりは、セールス&プロモーション・ディヴィジョンのヘッドという「軽い」位置にいた(社長は長兄の Saul Bihari、副社長に Jules と Joe )ようで、その彼がやがてウェスト・コーストを遠く離れた Memphis で新しいレーベルを立ち上げることになります。
(蛇足ながら、ウェストコーストではもうひとつ言及しておくべきレーベルがあります。それは 1948年に Lew Chudd によって設立され、Max Freitag を最高顧問に迎えていた Imperial Records です。でも、今回のテーマ(?)である Memphis とのつながりは薄いので、ここではパスさせていただいて・・・)

Jim Stewart

Jim Stewart が Memphis に出て来たのは高校を出てからで、本人はウェスタン・スィングの Bob Willis and Texas Playboys や Pee Wee King に Tex Williams、Moon Mullican、 Ernest Tubb、そしてそっち方面にあまりキョーミの無い「門外漢」のワタクシでも知ってるくらい有名な Hank Williams などの影響を受けていたらしく、カントリー・ミュージックのフィドル奏者になりたかったようです。
Sears Roebuck(有名なアメリカのカタログ通販の会社)で働くかたわら WDIA の早朝のプログラムで登場する Don Powell の Country Cowboys の一員として演奏もしていたようです。

このころ Sam Phillips は 1949年10月 1日、Memphis の Union Avenue 706番地の店舗の賃貸契約にサインし、SUN Records の前身である自らの「Memphis Recording Service」の準備を始め、翌1950年の 1月 1日に開業し、当時はまだローカルなミュージシャンだった B.B. King や Howlin' Wolf、そして James Cotton などのレコーディングを始めています。
1950年 8月 1日には、Joe Hill Louis の「Gotta Let You Go / Boogie In the Park」が Sam Phillips と、Memphis の D.J、Dewey Phillips の二人の「Phillips」によって発足した Phillips レーベルからリリース。

そして Bihari Brothers の Lester Bihari が Memphis で新しいレーベル Meteor を発足させたのが 1952年でした。
その年の11月に行われた同レーベルの最初のセッション(スタジオでは、という意味か?─ただし Elmore 周辺の資料ではそのヘンの詳細がかなり異なっており、一例として Bobby Robinson の Fire / Fury コレクションに同封された Discography では 1月*としています)は、Elmore James の「I Believe / I Held My Baby Last Night」 Meteor 5000です。バックを務めたのは The Broomdusters( J.T.Brown のテナー・サックス、Johnny Jones のピアノ、ドラムは Oddie Payne )でした。およそ 30分で上記以外にも 2曲の録音がなされた、としている資料もあり Meteor 5003 の「Baby What's Wrong / Sinful Woman」がそれだと思うのですが、資料によっては Meteor 5003 を、翌1953年の 2月に Chicago で録音されたもの、としているものもあります。
*─ 翌1952年 1月には Mississippi 州 Canton での Joe Bihari によるレコーディング。ここではポータブル・テープ・レコーダーが使われ、Canton のナイトクラブ the Club Bizarre で録音された、と言われています。ピアノに Ike Turner、ドラムは氏名不詳。
この時には Please Find My Baby、Hawaiian Boogie、Take a Little Walk with Me、Dust My Broom なども録音されたようですが、Please Find My Baby と Hawaiian Boogie の二曲は Kent LP-9001などに収録されています。他はおそらくテープが散逸したか、これもまたテープに上書きされて消えた可能性があるようです。
この時の二曲のマスター・テープは後( 1953年 5月)に Los Angeles の Universal Recording Studios でベースとドラムをオーヴァーダブされて Meteor master #MR 5017となったそうです。
同じく、これも氏名不詳のサックス・プレイヤーを加えて Lost Woman Blues( Please Find My Baby の Ver.2。ただしこれは Flair 1022として一度は市場に出ているらしいのですが、Lillian McMurry から、いまだに Elmore James は Trumpet の契約下にある、という抗議を受けてすぐに回収されています。結局ちゃんとリリースされたのは 1954年になってからのこととなります)、Lost Woman Blues( Please Find My Baby の Ver.3。こちらはやはりベースとドラムを後にオーヴァーダブされて Meteor master #MR 5016となりましたが、それは結局リリースされず、オーヴァーダブされていないオリジナルの方が Flair 1022として後にリリースされています)、Hand in Hand(これは Flair 1031としてリリース。また Kent LP 9001にも収録されています。)を録音。
少なくとも Elmore に関しては、そちらのほうが信頼出来「そうな」感じですが・・・

Jim Stewart は 1950年の後期には the First National Bank で職を得ています。しかし 1953年には陸軍に入隊(朝鮮戦争が終った年です。つまり彼は「せっかく」 The Saturday Night Jamboree という絶好の機会が存在した時期に軍務についていたワケなんですね)。そこでは通常の軍務ではなく、音楽演奏を主とした特別な任務につき、もっぱらヴァイオリンを弾いていました。
ただし、手元の資料ではその任地についての記述が無いのでなんとも言えませんが、もしかして近くにいた可能性も否定できませんね。

その 1953年の夏には、Sam Phillips のもとに一人の若者が現れました。母親の誕生日のプレゼントにするため、吹き込みに来たエルビス・プレスリーです。
彼が歌った「My Happiness」と「That's When Your Heartaches Begin」の 2曲を聴いてプレスリーの資質に注目した Sam Phillips は、その後10曲をプロデュースしています。
さらに 1955年 6月 1日には、Johnny Cash のデビュー・シングル「Cry! Cry! Cry! / Hey! Porter」を発売。
しかし 1955年11月 1日、プレスリーの人気は上昇しているにもかかわらず、セールス・プロモーションを全国展開するだけの「戦略」も「戦力」も持たない Sam Phillips は、結局プレスリーのシングル 5枚・10曲の版権と専属契約とをまとめて RCA に 35,000ドルで売却してしまいました。

また Jim Stewart は金融関係の州立学校に入り、1956年に卒業しています。そして銀行でふたたび働き始めたようですが、その間もフィドルは弾き続け、Memphis 周辺をウェスタン・スィングのバンドに加わって演奏してまわっておりました。
なかでも Memphis の Lamar Avenue にあった the Eagle's Nest(って、もしかするとイマもあるのかもしれまへんが、この Eagle's Nest には 1954年 8月 7日、エルヴィスもその生涯で 3度目のコンサートとして出演しています)にはよく出演していたようで、そこで彼のセンスが鍛えられたのかも?

SUN Records

SUN Records は1950年にスタートした「Memphis Recording Servis」(そのモットーは "We Record Anything - Anywhere - Anytime."でした)から発展して1952年に設立された Sam Phillips のレーベルですが、1953年に、Big Mama Thornton の「Hound Dog」へのおちゃらけたアンサー・ソング「Bear Cat」を歌う Rufus Thomas のおかげで二重の意味で SUN の存在を世間に知られることとなります。
リリースとともにその曲はチャートを昇りつづけ、ついには R&B チャートの 3位にまで到達したのです。
しかし、オリジナルの「Hound Dog」に肉薄するあまり(?) Jerry Leiber と Mike Stoller からなる原曲の「著作権」に抵触する、として訴訟沙汰になってしまったのでした。
その Rufus Thomas は、1917年 3月26日、 Mississippi 州 Cayce で生まれ( alt. 3月28日、Tennesseee 州 Collierville 生まれ?)家族とともにすぐ Memphis に移ったらしく、それもヴォードヴィル芸のテント・ショーでの生活を送るようになり、1930年代の中頃にはすでに the Rabbit Foot Minstrels に所属するプロフェッショナルなコメディアンでした。
彼の「音楽」の初録音は 1941年だったようですが、それ以上に Memphis のミュージック・シーンに関わってくることになるのは、その当時としてはそれほど多くなかった「黒人経営者によって運営され」ていた放送局のひとつ WDIA の D.J.となってから、とするのが妥当でしょう。
また彼は Beale Street でのタレント・ショーも組織し、将来のブルース・シーンに大きな影響を与えることになります。そして、あの Carla Thomas の父でもあります。

Indies

さて、一方の Jim Stewart は、ってえと、次第に自分たちの音楽をレコード化したい、という野心を持つようになったようで、1957年には何曲かを吹き込みたいのだが、という提案を SUN Records をはじめとする Memphis 周辺のレコード会社に持ち込んでみました。
しかし、どのレーベルも芳しい感触を返してはくれません。ところが理髪店のオーナーで、かつ自らもフィドルを演奏する人物が手をさしのべてくれたのです。
カンのいい方は「それって・・・」と気付いておられるやもしれませんが、それこそが、「 Jamboree」の Joe Manuel のマネージメントをてがけ、素晴らしい経営手腕を発揮した Marshall Erwin Ellis その人でございます。
Riverfront と Erwin という二つの自分のレーベルを持っていた Ellis は Jim Stewart に録音するための機材を貸してくれた上に、小さなレーベルを経営してゆくコツやその他さまざまな収入を確保する方策などを授けてくれることになります。

さて、「あの」 Bihari Brothers の Memphis での橋頭堡となるか、と思われた Lester Bihari の Meteor Records のほーはいったいどうなってたでしょ?
あの Elmore James(シングル三枚 6曲、あるいは異説では他に 2曲が未リリースか?)や Joe Hill Louis、Sunny Blair、などをリリースして行ったのですが、経営的には成功とは言い難く、1957年にあの「Bear Cat」で物議を醸したのをこれっぽっちもハンセーしてなさそーな芸名 Rufus "Bear Cat" Thomas with The Bearcats(いいドキョウしてるよねー)の「The Easy Livin' Plan / I'm Steady Holdin' On」( Meteor 5039 )や、なんと Fenton Robinson の( with the Dukes )「Tennessee Woman / Crying Out Loud」( Meteor 5041)もリリースしているのですが、Meteor 5046の Steve Carl with The Jags を最期に、5年に及ぶ活動の幕を降ろしたのでございました。
ある意味、時流に乗り損ねた、と言えなくもないのですが、あるいは Lester Bihari の嗜好が Blues に偏っていたためかもしれません。

Jim Stewart は Ellis が貸してくれた録音機材を妻の伯父さん(叔父さん?)宅のガレージに持ち込み、さっそく録音にいそしみ始めました。そしてそれがようやくモノになったのは 1958年になってからだったようです。
その時のナンバーは C&Wのナンバーで、「 Blue Roses 」といい、Fred Bylar という名前の D.J.の作品でした。これは後に Satellite 100としてリリースされています。
この時 Jim は前述の Bylar ともうひとり、リズム・ギター担当の Neil Herbert の三人でイコール・パートナーとして新しいレーベルを立ち上げ、ひとり 300〜 400ドルを出資していました。その意味では、この処女作には多少の期待はあったのでしょうが、D.J.でもある Bylar が自分の勤める KWEM でそれをオン・エアしたものの、さしたるセールスには結びつかなかったのです。

それでも三人はこの Omni Street のガレージ(クルマ二台が入る広さだったそうです)の中、ポータブルのオープン・リール・テープ・レコーダーでレコーディングを続けました。
しかし、機材による限界を感じた彼らはなんとか Ampex 350モノーラル・テープ・レコーダー(1944年11月 1日に Alexander M. Poniatoff によって設立された録音機器のメーカーで、Alexander の「A」、ミドル・ネームの「M」、Poniatoff の「P」、それに Excellence の「Ex」をつけたもの、と言われていますが、異説では Experimental だという。1947年にはハリウッドの Radio Center で最初のレコーダー、Ampex 200A を発表。1948年の 4月24日には ABC に 1号機を納入。1949年 5月には大幅に改良されたニュー・モデル Ampex 300を発表。1950年秋にはその廉価版ともいえる Ampex 400も発表。そして 1953年 4月には、その Ampex 400を改良した Model 350 audio recorder を発表しています。これらの Ampex プロフェッショナル用機器は、一般家庭用のポータブル・テープレコーダーの、ものによっては 100倍以上の価格で、それはちょうど最近の DV ハンディ・カムと、およそ 1,200万円ほどはする業務用 Hi-Vision ENG の価格の違いに匹敵します。彼らが最初に吹き込んだのがおそらく民生用のポータブル・テープ・レコーダーだと思うのですが、それに対し Ampex はテープ速度も早いので高域特性も良く、精度・耐久性など、どのスペックをとっても民生用が足元にも及ばない「性能」を持っていました。
ただし幅広のテープに上下に 8層積み重ねた録音ヘッドで 8チャンネル・マルチ・トラック!なんてえ時代はまだ先のことで、この時期はバンド全員が揃って一発ホンバン、途中でダレかがミスったら、また最初っから、というある種「スタジオ・ライヴ」みたいなレコーディングだったのです)
を導入したい、と考えたのです。
そこで Jim が思いついたのが姉の Estelle Axton に泣きつく・・・もとい、相談してみることでした。
ま、ありていに言えば、彼女の家を抵当にして融資を受けよう、ってことだったのですねえ。それに対して姉は彼をシバきもせず(?)夫を説得し、抵当権を設定し融資へとこぎつけたのでございます。
さっそく Herbert と Bylar は当時 8,000ドルから 9,000ドルはした Ampex 350を購入しました。

Satellite

さらに Estelle は 2,500ドルで、自宅にレコード・レーベルを設立したのですが、1957年に打ち上げに成功し、話題となっていた世界初の人工衛星、ソヴィエト連邦の Sputnik にあやかったのか「 Satellite」という名前を付けています。
・・・と、ここで正式に Satellite がよ〜〜〜〜やく登場するのでございますよん。
1958年にはもっと録音機材を充実させたい、ということで Jim はさらなる融資を求めてきました。彼女はそれに応えて第二抵当権も設定して、自分が勤めていた Union Planters Bank から融資を引き出し、さらに投資を増加させています。
その時点でレーベルは Memphis にあった彼女の自宅から、Memphis の北東の郊外に位置する Brunswick に移されたのでした。

翌1959年の春には、ついに「歴史的」な転換点(の始まり?)が訪れます。
彼らは「初めて」黒人のグループ The Veltones(ここでまた、まったくの蛇足をイッパツ。Jay Graydon のことを知らない方にはまったくキョーミの無い「道草」ではございますが、彼が 1964年ころ、ギター三本!とドラムっちゅー構成で作った最初のバンド「The Veltones」とはモチロンまったくカンケーございません。こっちの Veltones はポップスやらサーフ・ミュージック、そしてノリのいい R&B をレパートリーとしておよそ 2年間ほど続いたようですが、その録音は残っていないそうでございます。─本人のインタビューによる)のレコーディングを行ったのでございます。つまり、このレーベルの黒人音楽との関係は、ここに始まった、と言うワケです。
ただし、その The Veltones の「Fool in Love / Someday」は商業的な側面からは成功とは言い難く、1959年の夏にリリースされ、 9月には Mercury Records が 400から 500ドルを前払いしてそのディストリビューションを買って出たのですが、結局それ以上の収入にはなりませんでした。
そしてこの年には再び社を Memphis に戻しています。今度は月150ドルで East McLemore 通りと College 通りの角、926番地にあった古い Capitol Movie Theater を借りて社屋としました。
Estelle はその映画館だった建物のかっての売店を利用してレコード・ショップを始めていますが、それが多少は稼ぎ出す日々の「上がり」は経営をけっこう助けていたようです。
さらに彼らは映画館の改装に着手し、館内は次第にその姿を変えていきました。天井からは吸音材として垂れ布が下がり、かっての舞台上にはミキシング・ブースが設けられ、床にも吸音のためのカーペット、黄麻布による遮音壁、フラッター・エコー(完全に平行な壁面の間で発生する定在波のイタズラで、手を叩いた時など、その特定の周波数にエコーが収斂していく現象で、いわゆる「鳴き竜」現象。それを防ぐためには平面に多少角度をつけて音波が同じとこで反射し合わないようにすればよい)の発生を抑えるために漆喰の壁の表面には波打つような加工を施して行ったのですが、天井の垂れ布の施工以外はすべて自分たちで完成させています。結局この改装には 200ドル程度しか掛けていません。

Jerry Wexler

それでも、この一連の移転・改装のために新たな原資が必要となり、一般にも投資を募ってはみたものの、結局「ほなワシが」っちゅうモノズキ(?)は現れず、困った時の姉頼みで、またもや家屋を抵当に 4,000ドルを工面した、と資料にはあります。ありますが、はたしてアメリカの銀行における融資の実際はどーなっておるのでしょうか?ひとつの物件に対し、評価額の枠内で小刻みに貸したってえことなのかな?ま、それがどーしたってえことじゃないんですが、なんだかフに落ちないもんで。

1960年 9月 1日、Sam Phillips は Madison Avenue 639に新スタジオをオープン。

そしてついに Satellite にも幸運が巡って来る時が来ました。SUN で例の「 Bear Cat」を吹き込んで(その後 Meteor では Rufus "Bear Cat" Thomas 名義で吹き込んだ) WDIA の D.J.だった男、Rufus Thomas が、まだ 17才だった( alt. 18才)自分の娘 Carla とデュエットで吹き込んだナンバー「Cause I Love You」が Memphis 地区限定ながらも「ローカル・ヒット」となったのです。
それに注目したのが Atlantic Records の副社長だった男、Jerry Wexler( 1917年 1月10日、New York の Brooklyn で生まれたユダヤ系の白人で 1930年代は貪欲なレコード・コレクターとして、1940年代には Billboard の寄稿者として知られていますが、1953年には在 Washington のトルコ大使の子息であった Ahmet と Nesuhi の Ertegun 兄弟が 1947年に設立した Atlantic Records に、シニア・パートナー並びにプロモーションと A&R マンとして参加しました。同社ではすぐに頭角を現し、プロデューサーとして、重役として、時にはソングライターとして活躍しています)でした。
彼は即座に向こう 5年間の Satellite の「製作」を 5,000ドルで Atlantic Records に供与する契約を結びます。
Carla Thomas は今度はソロで Satellite に「Gee Whiz」を吹き込みましたが、Jerry Wexler は直ちにその録音に関する供給権は Atlantic にあることを主張しています。その結果、「Gee Whiz」は Atlantic を通じて全国に供給され、ビルボードの 5位にまで昇り、これが Jim Stewart と Estelle Axton にとっての「初の」全米ヒットとなったのでした。

the STAX

ところで Estelle Axton の息子、Packy はテナー・サックスを吹くようになっており、the Royal Spades というロックン・ロール・バンドに参加しておりました。やがて Packy はギターの Steve Cropper、同じく Charlie Freeman、ドラムの Terry Johnson、バリトン・サックスの Don Nix、そしてベースの Donald "Duck" Dunn などと交流するようになり、その高校生からなるメンバーがほとんどそのまま the Mar-Keys を形成しています。そして吹き込まれたインスト・ナンバー「Last Night」が「Gee Whiz」に続くビッグ・ヒットとなったのでした。
ところが、この曲がチャートを昇り始めたころ、Jim Stewart は California にある「別な」Satellite レコードの存在に気付き、そのままでは訴訟沙汰は避けられない、と判断した彼はその社名を変更する決断をしたのです。
そこで Stewart のアタマ二文字「 ST 」と姉の Estelle Axton の苗字のアタマ二文字「 AX 」を組み合わせた「 STAX 」を新しいレーベル名として採用しました。
時に 1961年、「栄光の」あの名前、STAX がその生を受けたのです。

Johnny Jenkins

その STAX studio に近いところにひとりのキーボード奏者が住んでおりました。
まだ若いピアニストだった Booker T. Jones はやがて the Mar-Keys の Steve Cropper と Donald "Duck" Dunn、そして Al Jackson とともに「STAX Sound」の中核をなしてゆくことになります。またそのグループは Booker T. and MG's として( MG's の MG は Memphis Group だそうでございますよ)として吹き込むようになり、あの「Green Onions」の大ヒットを飛ばすことに!
しかし 1962年の「特筆すべきこと」は別なビッグ・ネームの出現かもしれません。

その前にこのひとのことを少し。
みなさまは Johnny Jenkins をご存知でしょうか?
1939年、Georgia 州 Macon で生まれ、Swift Creek と呼ばれるド田舎地帯でもっぱらバッテリーを電源とする Portable Radio(つまり、電気も引かれてないイナカっつーことでしょか?)でブルースや初期の R&B、アーティストとしては Bill Doggett や Bullmoose Jackson などを聴いて育った、という彼は 9才の時、ご他聞に洩れず、シガー・ボックスとゴム・バンドでギターを自作したのですが、(元々左利きなのか、それとも偶然そーなっただけかは資料からは判りませんでした)普通とは逆の左向きに持ち始めたようで、それは姉からホントのギターを買ってもらった後もそのままだったようです。
その Johnny Jenkins が 1962年に Atlantic のために STAX のスタジオに録音に来たのです。
Georgia 州のローカルな放送局に出演していた彼を最初に認めたのは、後に Macon で Capricorn Records を設立することになる Phil Walden かもしれません。
彼は Johnny Jenkins とそのバンド the Pinetoppers のブッキングも手がけるようになっています。
・・・と、ここで、その Phil Walden についてもウンチクをタレたいとこですが、ま、彼の場合は Macon がメインなんで、今回はパス。

その Johnny Jenkins を迎えた STAX Studio では、「あの」奇跡が起きる・・・

These Arms Of Mine

その日、Johnny Jenkins はおそらく「Love Twist」を吹き込んだのではないかと思うのですが、Jenkins の調子が良くなかったか、あるいは逆に順調に進んで思いがけず早く終ってしまったのか、たぶん前者だろうとは思うのですが、およそ 30分ほど余裕が出来たとき、プロデューサー(吹き込みに立ち会っていた A&Rマンの Joe Galkin、また Jim Stewart だった、とする資料もあります)は彼と一緒にスタジオにやってきていた Johnny Jenkins のバンド the Pinetoppers のヴォーカリスト(バンドでは Jenkins がギタリストとして全体をリードしていたようです)で、お抱え運転手でもあった男に、「時間あるからキミも歌ってみる?」てなことを言ったんでしょか?すると男は、それじゃあこの歌を、ってんで自作の曲を出してきました。
そしてレコーディング・・・
その曲こそは、いまだにその時のオリジナルを超えるカヴァーが(おそらく、これからも)存在しない稀代の名曲、名唱となったのです。

この両腕の寂しさ、哀しみ
この両腕の憧れ、お前に憧れて
もし、この両腕でお前を抱きしめることが出来るなら、その歓びはいかばかりか・・・

(原詞 http://www.lyricsdepot.com/otis-redding/these-arms-of-mine.html )

These Arms Of Mine、歌ったのは Otis Redding。
21才の、まさに新しい才能が「シーン」に登場した瞬間でした。

この曲は 1962年の 10月に STAX の R&B のサブ・レーベルたる Volt からリリースされ、翌1963年の 3月にはチャート・インしています。
ただし、この曲は Otis Redding の初レコーディングではなかったようで、それは 1960年、Otis and The Shooters という名義で行われていますが、実質的には Johnny Jenkins の the Pinetoppers そのものだったようです(曲名など詳しいことはこちらで)。

Otis Redding は 1941年の 9月 9日、Georgia 州の州都 Atlanta からおよそ 200km南、State Highway 520沿いの Dawson で生まれました。
彼が 5才の時に家族は Macon の the Tindal Heights Housing Project という(おそらくは、低所得者層のための供給住宅ではないかと思われますが)住宅地区に移っています。
彼の父は Robins 空軍基地で働き、週末には the Vineville Baptist Church の牧師(キリスト教の各宗派における呼称の区別には詳しくないので、あるいは司祭、神父、などの方がふさわしいのかも?原資料でも preacher と minister の両方が使われてます)でもあったようです。
Otis はその教会の聖歌隊で歌い始めました。ただ、彼の少年時代、父は病に臥せっていた、という資料もあるようですが。
その後 Bellevue という Macon 西郊の土地に掘っ立小屋みたいな家を建ててしばらく暮らしていますが、そこが火事で燃えてしまったため、ふたたび Tindal Heights に戻っています。
Ballad Hudson High School の第10学年で(日本でいう高 1かな?)おそらく家計を助けるためにドロップ・アウトして Little Richard のバンド the Upsetters で働き(資料では Play; 演奏とは書いてないのでローディーや兼ドライヴァーあたりだったのでしょか?)家には週 25ドルを送っていました。
また、当時 Gladys Williams(このひとについてはよく判りません。地方の名士でしょか?お名前からすると女性のようですが)が主催していた Sunday night talent show(それが正式名称ではなさそうですが、賞金は 5ドルでした)では 15週連続で勝ち抜き、それ以上の出場を断られたのだとか。
1959年には the Grand Duke Club で歌い始め、1960年からは Johnny Jenkins and The Pinetoppers にヴォーカルとして加わり、その地方では有名だった D.J.の Hamp Swain によって、土曜日の朝に the Roxy Theater(後には the Douglas Theatre に)で行われていた『Teenage Party』タレント・ショーに出演したほか、バンドで南部一帯をツアーし始めます(前述の初録音もね)。
なお、彼が妻の Zelma Atwood に出合ったのが 1959年で結婚は 1961年の 8月でした。この夫婦の間には三人の子供が生まれ、Dexter、Karla、Otis III そして実はもうひとり、Demetria がいるのですが、この次女は Otis の死後に養子となったものです。

1962年のこの「These Arms Of Mine」は Johnny Jenkins and The Pinetoppers のセッティングをそのまま流用したものだったようですが、それが R&B の大ヒットとなり、1961年に新設された STAX のセカンド・レーベル Volt を大いに潤したことにより、それ以降は STAX のハウス・バンドたる Booker T. and The MGs がフルにサポートをすることとなりました。
続いて録音された「That's What My Heart Needs」、「Pain In My Heart」、そして「Chained and Bound」は同様に目ざましいヒットとなりましたが、1965年初頭の「Mr. Pitiful」ではその勢いがやや衰え、まあまあのヒットに収まったようです。とは言ってもそれは「売れない」ミュージシャンから見れば、そんだけ売れたら死んでもいい!なんて思わせるくらいの売れ行きだったようですが。

その間、STAX は Otis Redding のみに集中していたワケではもちろんなく、1963年にはあの Rufus Thomas が新路線に踏み出した「The Dog」、そして「Walking The Dog」、さらに「Can Your Monkey Do The Dog」を連発しております。

ところで、そもそも Otis Redding をこの STAX へと導いた張本人(?) Johnny Jenkins さんはその後どーなったんでしょか?
そのバンド The Pinetoppers から Otis Redding という不世出のスターを送り出した後、資料では「Jenkins declined, ironically, because he didn't like air travel.」と描かれております。
そ、どーやら彼は大の「ヒコーキ嫌い」だったようで、(そればっかりじゃないにしても)それじゃ全国ツアーやらセールス・プロモーションなんて夢のまた夢・・・
でも、彼のギター・ワークはまだ若かったころの Jimi Hendrix に影響を与えた、なんて話もあるんですよ。

ま、それはともかく、1970年には Capricorn にとっては初めてリリースしたアルバムとなった Ton Ton Macoute を吹き込み、一部ではレビューで採り上げられたりもしたのですが、Phil Walden(実は一時期、Otis Redding のマネージャーもしてるんですよね。でもコイツの伝記だと「Otis Redding はたしかにタダモノじゃなかったが、Phil & Alan の Walden 兄弟が、ローカルなタレント・ショーのチャンピオンに過ぎなかった彼を世界に送り出した」なんてあるのを見ると、おいおい、そりゃあ違うだろ!とツッコミたくなりますなあ。いるよね、こうゆうなんでも自分の手柄みたく語るヤツ)はそこでバッキングを務めたオールマンの方に興味を移してしまいます。
1975年にはもう一枚レコーディングしたのですが、どうやらいまだにリリースされていないようで、それにムカついた(?)彼は家族を連れて Macon に引っ込んでしまったのでした。
しかし 1996年には新生 Capricorn レーベルに Blessed Blues(バックには Chuck Leavell の keyboards、リズムには Muscle Shoals から Mickey Buckins を迎えて)を吹き込み、さらにブルース度を高めたそのアルバムは W.C.Handy Award の候補にもなっています。さらにその後、Mean Old World Records からアルバム Handle With Care をリリース。

生涯を通じて、フルタイムのプロ・ミュージシャンになろうとはせず常に「昼の仕事」を持ち続けた男。
家族を置いてツアーに出るなんてことを考えもしなかった男。
そのデビュー・アルバムは Allman Brothers がバックを務めていることで知られている男。
あの Otis Redding を自分のバンドの運転手兼ヴォーカルにしていた男。
その Otis がブレイクしてバック・バンドに誘われたのにそれを断った男・・・

結局 Johnny Jenkins は栄光よりも、家族との日常を選んだのかもしれません。彼にとっては 1969年に New York の Steve Paul のクラブで Jimi Hendrix と「組んで」共演したことだってそれほど重要なことじゃなかったのかも。

Al Bell

およそ Booker T. and the MG's に始まり、Carla Thomas から The Mar-Keys、そして Otis Redding と続いて来た STAX Records の成功は、自然と、さらなるミュージシャンを惹きつけることとなります。
その中には Sam & Dave と Wilson Pickett がいました。そのふたつは Atlantic によってもたらされたものですが、STAX 自身も William Bell や、Knock On Wood の Eddie Floyd、the Mad-Lads、さらにプロデューサーでありソングライターでもあるデュオ、Isaac Hayes と David Porter を獲得しています。
しかしその前に STAX にとってはもっと重要な人事があったのです。
それは Eddie Floyd のところでも名前が出てきた Washington D.C.の黒人 D.J.にしてレーベル・オーナーでもあった Al Bell を国内セールスの責任者として迎えいれることが出来たことでした。
1965年に彼がその任に着くや、たちまちにリーダーシップを発揮して成果を上げ、それによって所属ミュージシャンも増えた、と言っても良いかもしれません。そして、彼は未来の STAX においても重要な存在となっていくのです。

このころ、Sam & Dave が登場し、さっそく Isaac Hayes と David Porter は彼らをものにしました。
「I Take What I Want」、「Soul Man」、「You Don't Know Like I Know」、「Said I Wasn't Gonna Tell Nobody」、「Hold On, I'm Coming」などのヒットが連続し、さらにその翌年 1966年には前述の Eddie Floyd の Knock On Wood、Carla Thomas の B-A-B-Y、Albert King の Crosscut Saw、また Sam & Dave で You Got Me Hummin'・・・しかし「悲劇」は静かに近付きつつあったのですが。

翌1967年はヨーロッパ・ツアーや the Monterrey Pop Festival などで華やかな年でもありました。Otis のツアーでバッキングを務める the Bar-Kays にまで Soul Finger というヒットが生まれています。

Lake Monona

そして運命の 12月10日、Otis Redding と The Bar-Kays が乗り込んだ双発のビーチクラフト機は Wisconsin 州 Madison の、周囲およそ 21km、最も深いところで 22.6mという Lake Monona に墜落し、天空にひときわ輝いていた大きな星は失われてしまったのでした。
皮肉にも彼の最期のシングルとなってしまった The Dock of the Bay はこの悲劇によってさらに注目され、R&B およびポップスの両チャートで 1位になる、彼にとっての最大のヒットとなるのです。

しかし STAX にとっての本当の悲劇はその後に来たのかもしれません。
Atlantic との間で締結されていた契約が期間満了となり、再締結の交渉をする必要があったのですが、そこで Jim Stewart はこれまでの作品の所有権が「すべて」 Atlantic に帰属することになっていることに気付き、戦慄することとなりました。
それを取り戻そうとする交渉は泥沼に入り、いずれにしても「気付くのが遅かった」 STAX にはもはや打つ手は無かったのです。
こうして Otis Redding を始めとする多くのミュージシャンの版権は STAX の手から奪い盗られてしまったのでした。
結局、Atlantic の言いなりになって隷属する、というかわりに STAX は映画会社 Gulf and Western に株を売却して数百万ドルを得ています。
この決断は Jim Stewart と Estelle Axton、そしてもはや重役となっていた Al Bell の合意によっており、形の上では「雇われ」社長と重役という地位になりました。

Gulf and Western

その後の 2年間は STAX にとってかなりの努力が必要だったことでしょう。
当面の「稼ぎ頭」を失って低迷する売上で持ちこたえなければならない、という社内事情に加え、外圧としては筆頭株主となった Gulf and Western からの干渉、とまさに「内憂外患」というコトバがピッタリ来るような日々だったハズです。
しかし STAX の経営陣─ Jim Stewart と Al Bell ─は株を買い戻すことを目的に努力を続けます。
1969年には Al Bell の主導で「攻め」のリリース・キャンペーンを開始し、ピーク時には一ヶ月でアルバム 27枚、シングル 30枚を投入。
Booker T.の Time is Tight、Johnnie Taylor の Who's Making Love、さらに Isaac Hayes の一連のヒットのハシリとなった Hot Buttered Soul は「トリプル・プラチナ・ディスク」という偉業を成しとげました。

SUN & Hi

さて、その間、Sam Phillips の SUN Records はどうなっていたのでしょうか?1958年には Johnny Cash が Columbia に去りますが Sam Phillips は社屋を Madison 街 639のワンブロックに移し近代的なスタジオを二つ新設しています。ただ、それとカンケーあるかどうかは「?」ですが、妻の Becky と離婚し、1955年に入社していた Sally Wilbourn と一緒に暮らし始めています。
1961年には Nashville にもスタジオを設けますが、1964年には売却してしまいます。
ナッシュヴィルでは American Federation of Musician のガイドラインがレコーディングの時間当たりの曲数まで制限していたため嫌気がさしたもののようです。
STAX がブラック・ミュージックに集中して行ったのとは対象的に、どんどん R&R に特化していった SUN でしたが、1960年代の中期からは Columbia / Capitol、あるいは Mercury、さらには Atlantic などからも買収の話しが持ち掛けられるようになっていました。
Sam Phillips は各種の条件を摺り合わせて検討した結果、1969年の 7月 1日に Shelby Singleton に SUN Records を売却しています。
もっとも、そんな SUN の退場に先だって、Memphis のミュージック・ビジネスには新規参入がありました。
1957年に Ray Harris が 3ドル50セントの投資(これはたぶん会社登記の手数料のコトじゃないかと思うんですが定かではありません)で興した Hi Records がそれです。
そこには、かって SUN と Meteor のための制作に関わっていた Bill Cantrell と Quinton Claunch という二人も参加し、さらに彼らが声をかけた Joe Cuoghi という人物は Popular Tunes というレコード店を経営し、ジュークボックス事業も手がけていた事業家で、後には Hi Records の社長にまでなっています。
Hi Records の最初のヒットは 1959年、かって SUN でのプレスリーのセッションでは必ずバックでベースを弾いていた Bill Black の the Bill Black Combo でした。
Ray Harris とこの Bill Black は、 Hi における 1960年代前半の基本的なリズムを決定した、と言って良いでしょう。
ところで、STAX でもセッションに参加しているトランペッター Willie Mitchell は、1961年に Hiでシングル「The Crawl」を出し、専属のホーン・アレンジャーとして、またセッション・メンバーとして the Hi Rhythm Section を組織し、それは STAX における Booker T.& MG's に匹敵するものでした。
実際、初期においては Al Jackson がドラムとして在籍したくらいですから。(このヘンの詳しいことは拙日記でどうぞ)

Columbia Records

STAX では、ドリョクの甲斐あって(?)ようやく 1970年には Gulf and Western からの株の買い戻しに成功し、そこからは the Soul Children、the Staple Singers、Frederick Knight、Jean Knight、Rance Allen、Mel and Tim、the Emotions を次々と獲得して行きました。
さらに新設したコメディ部門のサブ・レーベル Partee では Richard Pryor のデビュー・アルバム『That Nigger's Crazy』をリリースしています。
この時期、他にも Gospel Truth や Hip、そして Respect というサブ・レーベルも発足させました。

とようやく立ち直った STAX でしたが、しかしさらなる波乱が前途に待ち受けていたのです。
1972年、Al Bell は Columbia Records との間で STAX の供給契約を取り交わしました。
その時点で Columbia は 6,000,000ドルを STAX に出資していますが、Al Bell はそれを原資として Jim Stewart 個人の所有する株を買い上げる交渉に入りました。
結局 Jim は 5年間、社長の座に居続けることを許されたかわり、実質的な所有権を失ったのでした。そして、名目上の社長が誰であれ、実際には Al Bell が会社を運営してゆくこととなります。

でも波乱というのはそのことではないのですよ。

Clive Davis

ところで、Memphis にまつわる Soul のレーベルとして、実はもうひとつ、 Goldwax という存在もあります。そちらについては気が向いたら(?)いつの日にか改めて採り上げるかもしれまへん(が、期待しないでねん。Goldwax についてはワタクシ、まあ好みのモンダイっちゃあそれまでだけど、あまりプレゼンスを感じてないのですよ)。

STAX の Jim Stewart は Al Bell によって名目上の「社長」として、いわば名誉職に退いたワケですが、その背景には、Al Bell が自分の戦略が間違ってはいない、と確信するにいたった 1971年の Isaac Hayes のメガ・ヒット『Shaft』のサウンド・トラック(グラミーばかりか「オスカー」まで獲ってますからねえ)や 1972年の The Staple Singers の「I'll Take You There」に「Respect Yourself」、 Luther Ingram の「I Don't Want to be Right」の成功があったのではないでしょうか。
そのようなヒットを持っていることがディストリビュート契約を Columbia と結ぶ際にも「有利」に働いたことは確かで、そのヘンの実務交渉で、この会社をシビアに運営して行けるのは自分だ、ま、言い方を変えれば Jim ではダメだ、という実感を持ったからなのではないでしょうか?

ただ、この時の Columbia との交渉の成果はいささか奇妙なもので、当時の CBS 側の資料ではそのへんを
『Columbia Records の社長、Clive Davis は、STAX からのレコードを市場に出した時点で、それが売れようが売れまいが「出荷分」の枚数に応じた支払いを STAX に対して行うよう、「有無を言わせず」命令した』 と表現しています。
確かに、これだけでは「出来高払い」じゃなく「見込み買い」だ、ってだけで、さほど問題にはなりません。しかし、普通ならこのスタイルを採る場合にはリスクを見込んで「それなり」に安く買うのがジョーシキなのに、後に Columbia が是正したごとく(なんと、高過ぎる、ということで一挙に 40%もカットされています)それはあまりにも常識を外れた配分率だったようです。
ここで登場した当時の Columbia の社長について、ちょっと道草をば・・・

Clive Davis; 1934年 4月 4日、New York の Brooklyn でユダヤ系のブルー・カラー(この場合の「カラー」は色の「 Color」じゃなく、シャツの襟の「 Collar」ざます。つまり日本で言うところの「サラリーマン」じゃなく、工場労働者を「ブルー・カラー」と言います)の家庭に生まれています。
決して恵まれた家庭環境とは言えなかったようですが、おそらく上昇思考に溢れていたのでしょうか、IVY リーグの名門、Harvard に進み、その Law School で、奨学金を貰えるアヴェレージ B 以上をキープするために、相当なドリョクを続けたようです。
そして無事 Harvard を卒業した彼はまず小さな法律事務所を開き、CBS を主要なクライアントとして持つ大きな事務所との仕事を始めています。
やがて彼は直接 CBS 傘下の Columbia Records と関わるようになり、そこの経営陣は彼の商才とともに、音楽に対する情熱にも感銘を受けることになります。そのようにして Columbia に入った彼は順調に出世の階段を昇り、1967年には、ついに CBS そのものの社長に就任しました。
その年の the Monterey International Pop Festival にインスパイアされて彼はロック系のミュージシャン(ピンク・フロイド、ジャニス、サンタナ、ブルース・スプリングスティーンなど)を次々に獲得し、これがまた支持されて、Columbia の市場でのシェアを 2倍に伸ばしています。
しかしそのさなかに会社資産の不正流用から彼個人の着服容疑に関して財務局の捜索を受け、CBS グループはそれが全社的問題に波及するのを恐れて 1973年に彼を解雇したのです。
この大きなつまずきにもかかわらず、彼の音楽に対しての情熱が冷めることは無く、1974年には Arista Records を設立しました。
結局、彼の金銭にまつわる疑惑に関しては、この資料ではそれ以上の追求はなされていません。はたして Al Bell との間で、なんらかの密約や裏オプションがあったのか?などといったことはまったく判りませんでした。

どうです?1972年というのは、彼のケツに火がつく直前だったのですねえ。(その年は L.A.での『WattSTAX 』コンサートの年でもあったのですが)
1973年には、CBS は大量のレコードを発注し、当然 Clive Davis の取り決めに基づき、巨額の対価が STAX の金庫に流れ込むことになります。
その異常な金の流れはアメリカ国税庁の注意を惹き、さらに前述のとおり、Clive Davis 個人の財務管理に関する疑惑とのからみもあって、財務局も乗り出し始めていた時に、現金 100,000ドルを空路で運ぼうとして空港のゲート・チェックで露見した社員がいたために STAX にも査察が入りました。
だって、誰が見ても裏バック・マージンでしょ、そんな現金を「人が運んでる」なんて。
判り易く言えば Columbia は STAX に「かなり」高目の支払いを行うかわり、Al Bell はその中から密かに一部を Clive Davis 個人に「還流」させるメカニズムを作っていたのではないか?という疑惑でしょう。

結局 CBS は Clive Davis の Columbia Records 社長としての職を解いて追放(?)することで、グループ全体に疑惑が波及することをくいとめる策に出ます。さらにその Clive Davis が結んだ STAX との契約を反故にし、一挙に 40%をカットし始めたのです。
これによって STAX の経営は急速に逼迫し、200人にも及ぶ従業員の給与、関連業者への支払いなどが停滞し、しかも、法廷では訴訟合戦が持ち上がっていました。
CBS が STAX を(おそらく Clive Davis との契約の不公正について)訴え、逆に STAX は(おそらく一方的なカットに関して) CBS を訴え、Union Planters Bank は STAX の差し押さえと、(おそらく財務管理の不備について?) STAX 、さらに CBS、Al Bell と Jim Stewart を訴え、逆に CBS は(おそらく差し押さえによる業務妨害で?) Union Planters を起訴、といったまさに泥沼の法廷闘争の状態に陥っていきます。
その間も STAX の経営状態は悪化してゆき、ついに 1975年には STAX のためにレコードのプレスを請け負っていた会社からの請求にも完全に支払いが不能な状態となり、この時点で数百万ドルの債権を抱えていた Union Planters Bank は銀行に対する不正行為の疑いで Al Bell を連邦大陪審に起訴しました。
さらに Isaac Hayes も STAX を訴えています。そして Union Planters は STAX の出版部門を「抵当流れ」として処分。
1975年12月19日、裁判所はついに STAX の「破産」を宣告。
翌1976年の 1月12日には、反訴も適わず閉鎖が決定し、ここに 1959年から 1975年にかけておよそ 300枚のアルバムと 800枚を超えるシングルを送り出した STAX の栄光の歴史が閉じてしまったのでした。

Fantasy Records

残っていた STAX のマスター・テープは 1977年に債務整理のためのオークションにかけられ、1,300,000ドルで California の Fantasy Records に買い取られています。
また、かっての STAX Recording Studios は 1981年に Union Planters によって僅か 1ドルで Southside Church of God in Christ に払い下げられ、同教会は 1989年にそれを取り壊しました。

Soulsville( http://www.soulsvilleusa.com/ )は 2000年に、跡地に STAX Museum of American Soul Music の建設を発表しました。

長々と追い掛けてまいりました STAX Records ですが、ワタシが生まれて初めて自分で買ったホントの Blues のレコード( Albert King の Blues Power )にはこの STAX のフィンガー・ティップスをする(たぶんね?)片手のマークがついておりました。それ以来 STAX には足を向けて寝てません(つーのはウソに決まってますが)。
今回はその STAX を、あえてビジネスというクールな側面から捉えてみました。ホ〜ント大人の世界ってフクザツ!

Alvertis Isbell

ところで Al Bell はどうなったのでしょうか?
1971年には Executive of the Year ( Bill Gavin による Radio プログラム協議連盟による)を受け、続く 1972年と 1973年には連続して the National Business League の選定する National Leadership Award を授賞。さらに 1975年には National Association for the Advancement of Colored People(全米黒人振興協会)によってNAACP Founder's Award 、1980年にはAmerica's Music and Entertainment of Fame に殿堂入り、1993年には Southeast Music Conference によってGospel Music Award of the Year 、続く 1994年には同賞の連続授賞の他NARM INDIE Best Seller Award も獲得、その後もthe W. C Handy Lifetime Achievement Award 、さらにthe Arkansas Black Hall of Fame にまで殿堂入りしています。

え?Arkansas 州の黒人の「栄光の殿堂」?All Music Guide では、たしか Al Bell って 1941年、Washington D.C.生まれ、ってなってましたよねえ。ま、悪い予感がして(?)それを鵜呑みすんのヤメてたんですが、別の資料じゃハッキリと Arkansas 州 Monroe 郡 Brinkley 生まれ、本名 Alvertis Isbell(!)とあるじゃありませんか。どーやらそこで生まれたあと、5才の時に家族とともに Arkansas 州 Pulaski 郡の North Little Rockに 移っているようです。
やはり All Music Guide はアテにならない!

Al Bell 自身の言葉によると、彼は North Little Rock の Scipio A.Jones High School に通い、やがて Little Rock の放送局 KOKY の D.J.となっています。
次いで Philander Smith College に進み、進学コース(法科あるいは医科のため?)を専攻したようですが、この時期に彼は( Memphis の WLOK で常勤のディスクジョッキーになる前に) Martin Luther King 牧師の主宰する南部キリスト教会議に関わることで脇道に逸れた、と言うことは出来るでしょう。
やがて、自身のレーベル Devore をスタートさせた後、Memphis の STAX の設備を利用するようになったそうです。
しかし、1963年ころ(?) Bell は Washington D.C.の放送局に D.J.として移り、その間に客観的に STAX の「価値」を意識したのかもしれません。また、Eddie Floyd 側の資料によれば、この時期に二人の交際が始まっているようです。
おそらく D.J.としての付き合いから STAX の Jim Stewart とのコネクションが発生したのでしょう。Bell によれば、Jim は度々意見を求めた、と言いますから、そこから STAX の A&R マンとなるのは「必然」だったようです。

Another Story

さて、Al Bell こと Alvertis Isbell のインタビューの資料に出あったのですが、イチバン知りたかったカネにまつわる辺りのハナシはやはり、これまた濃ゆい霧の中なのでございますよ。
まあ、考えてみりゃあ、ヘタなコト言うと、遡って「脱税」なんぞの嫌疑をかけられたりしちゃあたまりまへんからねえ。そのヘンはムリもないんでしょうが。

それでも、彼が STAX に誘われたあたりの彼の側からの事情説明は(無条件で信用するのはちとキケンもあると思いますが)また違った「位相」を見せてくれます。
つまり、これまでの資料では、STAX の Jim Stewart によって招かれたような形となっておりましたが、ここでは、その Jim Stewart はもちろんですが、なんと Atlantic の Jerry Wexler からも依頼があったようなんですねえ。
Jim Stewart は正直に会社がほぼ 90,000ドルの欠損で破産の危機に瀕していること、そこで、キミ(つまり Al Bell ね)をソンケーしてる国中の D.J.がレコードを買ってくれるようになるハズなんで頼む、なんとかウチに来てくれ、とゆーハナシがあって、そこでは、ちょっと妻と相談する、と逃げたらしいんですが、後日、Jerry Wexler に呼ばれて Atlantic で会見した際に、jim Stewart と Jerry Wexler の間で合意した事項として、両者がそれぞれ週に 100ドル、つまり合わせて 200ドルが毎週 Al Bell に支払われる、という点が伝えられました。
Al Bell 自身は STAX が扱っていた音楽に興味(あるいはそれ以上の「愛情」かも?)があったので、その条件で STAX への参加を決定したようですが、それを聞いた奥さんはかなりブーたれたそうです。
その時点で彼の年収はおよそ数十万ドルにのぼってましたが、週 200ドルでは一万をやっと超える程度にしかならないですからねえ。(ただし、当時、数十万ドルという年収は、それを裏付ける客観的な資料や、周囲からの証言が提示されているワケではありません)

しかし。最も重要なのは、彼が事業を好転させることに成功したら、彼に会社の所有権の一部を与える、という「諒解」が合意され、それについて一筆残された、という点かもしれません。

Little Rock

その当時のレコード産業での常識としては、ブラック・ミュージックの場合、アルバムでは約 30,000枚、シングルでは 300,000枚のセールスが限度と見なされていました。
Bell の考える黒人の所有するマルチメディアの会社、という壮大なヴィジョンが実現する見込みはまったく無さそうに思われていたのです。
しかし STAX は Sam & Dave、Johnnie Taylor、Carla Thomas、Otis Redding などによってシングルで百万枚以上、アルバムもそれに迫る枚数を売ることが出来ました。Bell の野望はあながち荒唐無稽なもの、とは言えなくなって来たのです。
彼はもちろん販売促進にまつわる一切を主要な任務としていたのですが、次第に制作現場にも興味を持つようになりました。
ただ、彼自身は自分の音楽的な才能は皆無である、と考えていたらしく、スタジオでプロデュースをしよう、という気もなく、一方ミュージシャンの方でも彼にそれを望む者はいなかったようです。
ただ、Little Rock での D.J. 生活を通じて「聴く耳」だけは養成されていたようで、その上で Jim Stewart が実際に現場でどのようなことを行っているのか、そして Jimmy Reed や Ella Fitzgerald などのミュージシャンのセッションに触れるなどして次第に技術的な部分にも通じるようになって行きます。そのベンキョーの成果は 1967年の Issac Hayes の Hot Buttered Soul で実を結びました。そして、Little Rock の KOKY 時代にはもう出会っていた The Staples Singers のプロデュースは、彼の手腕がもっとも良く発揮されたと言われているようです。実際、Al Bell が STAX で最初に獲得に動いたのがこの the Staples Singers で、でもそのころはまだプロデューサーではなかったため、スティーヴ・クロッパーが当初はプロデューサーとして担当していました。

Louis Isbell

当時 Robinson Auditorium と呼ばれた場所で the Staples Singers、Aretha Franklin、the Rev. C.L. Franklin、the Swanee Quintet、Sammy Bryant などのセッションは行われました。
そのようにしてレコーディング・スケジュールが立て込んでくると、レコーディングも様々な場所で行われるようになり、それに伴ってマスター・テープが社外で保管されるケースも増えて行きます。有名な例では Alabama の Muscle Shoals などですね。

ただ、the Staples Singers が1972年の R&B / Popsの両チャートを制した I'll Take You There の裏には Al Bell の兄弟 Louis Isbell の尋常ではない状況での死( getting killed と表現されているので「殺害された」ということだと思われます)がある、みたいなことが資料にはあるのですが、実際にはどのような状況でどのような事件が発生したのか、についての具体的な著述は含まれておらず、いや、それどころか、不合理な状況で失った兄弟は三人である、と記されております。もちろん、その他の兄弟の死に関しても詳しいことは判りませんでした。

そして兄弟と言えば、もうひとり、Paul Isbell の名が資料には登場しています。
それは STAX が Atlantic と袂を分かち、CBS との供給契約の下にあった時期のこと、ある時期から、STAX からは製品が CBS に渡されているのに、第一線の小売業者からは製品が「来ない」というクレームが続出するようになったとき、Al Bell は兄弟の Paul に小売業者に直接面談して、その経緯を探って来るように依頼しました。
と言っても、それはさらに先のこと。ともかく the Staples Singers の I'll Take You There には、不慮の死を遂げた Louis Isbell についての憶い出や、彼の「思い」が盛り込まれていたようです。マスルショールズでのレコーディングの最後に、実はこんな曲があるんだが・・・という形でいきなり出したのだとか。

Paul Isbell

ある意味で彼の周辺がおぼろげながら判明してくるにつけ、また新たなナゾが立ち現れて来てるよな気がしますねえ。
彼の兄弟たちに一体なにが起きたのか?それは彼らが黒人であることに関係しているのかいないのか?

さて、そもそも Atlantic と STAX の間で取り交わされた基本契約そのものが Al Bell からすれば「とんでもない」ものだったようですが、当時の彼は STAX に A&R マンとして入ったばかりで、そのような上層部の決定に口を挟める位置にはいませんでした。
STAX 側では単にディストリビュートにおけるマージン配分の取り決め、と考えていたようですが、実際には Atlantic は Otis Redding や Sam & Dave を含むすべてのマスターの権利を保有する形になっていたのです。
これはワタシ個人の推量の域を出ませんが、おそらく、この失敗を目の当たりにしたことが Al Bell をして Jim Stewart の経営手腕に対する疑念を抱かせた「始まり」だったのではないでしょうか?

結局 1972年に設立者のひとりだった Jim Stewart は Al Bell に完全に会社を譲渡し、名目上の社長に退いたのですが、Al Bell は 6,000,000ドルの出資と引き換えに CBS Inc.にディストリビュート権を渡します。

ここでの Clive Davis との「取り決め」が実際にはどのようなものだったのかは、やはり新資料でも判るワケはありません。
Clive Davis がまだ社長だった間は「やや不鮮明な(?)」取り決めに基づき、曲がりなりにも出荷した製品への対価が STAX に流れ込んで来てはいたのですが、その間に STAX としてはさらに積極的にプロモーションを行い、販売促進を進めていたものの、フシギなことに販売の現場からは、そのせっかくの「話題作」が店頭に「供給されて来ない」というクレームが頻繁に上がって来るようになったのです。
そこで Al Bell は自分の兄弟の Paul Isbell を派遣し、小売業界の実体を探らせることしました。その結果、判明したのは「やはり」ディストリビューターたる CBS Columbia から製品が供給されて来ていない、という実態で、ことここに至って STAX 経営陣は CBS との契約に関してなにかしらマズいことが起きている、ということに気付いたのです。

18-wheelers

Al Bell によれば、この時期( Clive Davis 後?)、支払いも滞り、ブツは持って行くのに、その対価がストップした状態が続いて STAX が危機感を強めていたさなか、18-wheelers(つまりアメリカの大型トレーラー・トラック)いっぱいの STAX の製品が送り出したそのままの梱包で送り返されて来たそうです。
そうなれば STAX がプレス業者などの下請けへの支払いなど、早晩その財政が逼迫するのは「必然」であった、と言えるでしょう。
「その頃にはまだ TOB ─敵対的乗っ取りという言葉は無かったと思う。でも、つまりはそれだったんだな。製品の対価の支払いを待っていたこちらに彼らは製品を返す、という手に出て来た。こちらは 67,000,000ドルの CBS に対する独占禁止の訴訟をウデのいい法律事務所に依頼した」・・・でも、この Al Bell の試みも成功はしませんでした。もっとも STAX と Bell に対する訴訟もすべてポシャったようなので「痛み分け」となったみたいですが。

Al Bell の父親は優れた手腕によって地域に影響力を持った企業家であったようです。その父のありかたに企業人としての彼はかなり影響を受けていたようで、尊敬の対象でもあったようです。
STAX が極めて難しい局面に立たされていたときに、彼は父に 50,000ドルの援助を依頼しました。すると父は兄弟に托して翌日には 50,000ドルを Memphis に届けてくれたのでした。
1959年に地方の小レーベルとして始まった STAX は 1974年には「黒人の経営する」五指に入る大企業となっていたのです。実際にはもはやガタガタになっていたとしても・・・

資料によれば、(もし事実だとすれば、ですが) CBS との間で、驚くべき「いきさつ」があったようです。
CBS は Al Bell との交渉の過程で、率直に「独占禁止法」に抵触するために CBS は結局 STAX を買うことが出来なくなったことを告げ、替わりに彼を CBS の副社長にして 15,000,000ドルを支払い、彼に STAX の所有権と収益のそれぞれ約 2パーセントを保証する、という提案を出してきたのだとか。
それが事実だとすれば、TOB の可能性を封じられた CBS が、一応 STAX を見限り、彼の黒人ミュージシャンとのコネクションを利用するために Al Bell に接近した、ということでしょうか?

Rimrock Records

CBS 側の考えた Bell の利用価値としては、新たな黒人のミュージシャンを獲得する際にも、彼の声望があれば、巨額の契約金を支払わずとも自然に集まってくるだろうから、きわめて莫大な「節約効果」が見込めるところにあった、と言われています。
ただし Al Bell の返答は「否」だったようですが。
つまり、本来ならばそのアーティストに帰すべき契約金が(そこに Al Bell 自身も含まれるとは言え)おエラいエグゼクティヴどもの私腹を肥やすだけになるワケですから、インタビューでは「 I'm not going to be a Judas.」、ユダにはならない、と答えたみたいです。

しかし、どのみち STAX は手に余る問題を抱えて頓挫する運命にありました。
当時 AL Bell はプレスの下請けとして Arkansas 州 Concord の Wayne Raney と Loys Raney( Wolf Bayou 生まれのカントリーのスターでハーモニカ奏者)の Rimrock Records を使っていましたが、その会社を買いとって資産面で有利な状況に持ち込もうとしたようですが、あいにくと、その工場は STAX にとっては小さ過ぎ、結局必要なプレス(つまりレコード製品です)を供給するには至りませんでした。

このように STAX 末期の、なんとか会社を存続させられないか、ともがいていた彼には、実は別な側面もあったようで、それは「政治」とのかかわり、と言うことが出来ます。
インタビューによれば「私は当時の Arkansas 州知事 Winthrop Rockefeller と非常に密接に動いていました。それは、出資関係が許すならば STAX を Memphis から Arkansas 州 Little Rock に移転させようと思っていたのです。しかし、そのさなかの 1973年 2月22日、Rockefeller が亡くなってしまったのでその計画も無に帰したのでした。」
また後にももういちど Arkansas 地方政治との関連について語っています。
「 1978年にはふたたび Arkansas 州に戻りました。それはちょうど Bill Clinton が初めて州知事に立候補した時のことで、彼と歓談したときに、彼もまた、ここ Arkansas にそのような音楽産業があってもいいし、その種の企業が移転を計画するのであれば、様々な面で歓迎する、との主旨の発言をしてくれました。しかし実際には、彼は期待された役割を果たすことが出来ませんでした。それを支えるべき地元財界に明確なヴィジョンを持って将来を見据える視点が無かったせいかもしれません。私は結局そこを後にして南 California へと発つことにしたのです」
う〜ん、彼としては、なんとか Arkansas の地元資本からの出資を募り、STAX を Little Rock の地で「再生」させたかったんでしょうね。それでも結局また彼は North Little Rock に戻って来ます。Bryant のそばにスタジオを持つ独立したレーベル Alpine Records を息子および他のパートナーたちと設立したのです。

Berry Gordy Jr.

ただし、この時期の彼について別な資料では Little Rock で時たまシングルをリリースするなどしていた、とあるのですが、ウェスト・コーストの件も出てこないし(ってゆうか、それは 1990年代のハナシとして出てくるのですが)そちらでは Alpine 自体登場してきません。どーなってんのじゃいったい?
ま、それはともかく、Al Bell は Berry Gordy Jr.に請われ 1980年代後期に Motown Records の社長に就任しています。
ただし 1988年には MCA と Massachusetts の持株会社 Boston Ventures に Motown Records は売却されました。その間、彼は Bobby "Blue" Bland のプロデュースをアレンジャーの Monk Higgins とともに手がけていたようです。

1990年代に入ると彼は Los Angeles に自分の会社 Al Bell Marketing を設立しています。 それはやがて Bellmark Records となり、the Dells、the Next Movement、Rance Allen、そしてBow Wow が遺作となってしまった Johnny Guitar Watson などを抱えていました。しかし、そこでの大ヒットはラップの Tag Team の Whoomp! で、quad platinum、つまりプラティナ・ディスクの 4倍!R&Bチャート 1位、ポップス・チャート 2位を 7週続けたメガ・ヒットとなっています。

Alpine Records

さて、インタビューで言う、「西海岸から North Little Rock に帰って来た」のが、この後のことなら、その後 Alpine Records を作った、となるのですが、カンジンのそこらへんの年代が付されていないため、またしても「?」が残ってしまいました。
ま、でも最初の本篇からすっと、イロんなことが見えてきたからまあ、いいとすっか?
他にもマーティン・ルーサー・キング師とともに「行進」に参加した、とか「公民権運動」との関わりを匂わせる記述もあったりするんですが、その資料ではその一節が唐突に出てくるものの「だからどーだったのか」が欠落しておるため、さらなる調査が必要でございましょう。
またどこかの資料で出くわすことがあったら、ふたたび追跡(?)を始めたいと思っています。


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