World War I

1914 年に、ヨーロッパにおける政治的なテンションがバーストするようなカタチで始まった戦火は瞬く間に拡大し、当時は「最終戦争(もちろん、そんなことにはならなかったワケですが)」などとまで言われた「第一次世界大戦」に発展しました。

その下敷きとしてあったのは 1912 年に始まり、翌年には一応の決着をみたバルカン戦争(バルカン半島における民族対立を底流にセルビア、モンテネグロ、ギリシャ、そしてブルガリア系の勢力と、トルコ系のマケドニアなどの間に起きた係争に際し、セルビア系の伸張を怖れたオーストリア=ハンガリーが介入し、結果としてセルビア人の反感を買うこととなる)であり、この地域は常に国境紛争や民族間の対立・憎悪の源泉として「火種」であり続けたことはみなさまもご存知のとおりです。
そんな中、1914年 6 月28日にサラエボにおいて、オーストリアの皇太子 Franz Ferdinand が、セルビア人の Gavrilo Princip によって暗殺される、という事件が発生します(ただし、皇太子と言ってもオーストリア皇帝 Franz Josef I 世の息子というワケではなく、実際には「甥」です。ただし、当時は彼が第一皇位継承権者ではありましたが)。

当初、オーストリアの君主たるハプスブルグ( Habsburgs )王家では、当時の同国外相ベルヒトルト( Leopold von Berchtold )の予想、セルビア側に対して要求を突きつけても、最悪「局地戦」程度の小競り合いはあるかもしれないが、おそらく要求は容れられる、との進言を信じて、7 月23日にはその方向でセルビアとの交渉に入ったのですが、セルビア側はその要求に部分的にしか対応せず(これには、その背後にロシアが存在するから、とする分析が主流です。同じスラブ系民族、というつながりだったようです)、それを不満として 7 月25日には国交断絶を宣言しました。
しかしその後もセルビア側からは満足出来る回答が得られなかったことから、ついに「宣戦布告」してしまったのですが、第二次世界大戦での日本とは違い、むしろ王室と軍部は「開戦」に消極的であった、と言われています。
この背後には当時まだ王室が存在していたドイツ帝国の意向もあったと考えられます。独墺同盟を結んでいた両国は非常に密接な関係だったのですが、主にドイツ側が対セルビア強硬姿勢を主張した、と言われています。
さらに、それを刺激するようにロシア帝国がセルビアを支援するための「総動員令」を発令。これに呼応して同盟側もヴォルテージが上がり 8 月 1 日にはロシアに対し宣戦を布告。
以後、オーストリア=ハンガリー、ドイツ、イタリアの三国対、フランス、ロシア、英国にセルビアという大規模な戦闘へと拡大していきます。

この戦争では「機関銃」や「航空機」「毒ガス」などというまったく新しい兵器が投入されることにより、それまでの歩兵対歩兵、あるいは騎兵による戦闘といったものがすべて旧態化し、例えば非戦闘員である市民への無差別爆撃などという、それまでの戦闘では考えられなかった「目的のために手段を選ばず」的なメソッドが定着してゆく最初ともなりました。
互いに、旧来の突撃戦では、機関銃によって多大な被害を蒙るだけ、ということが判って、塹壕で対峙する長期戦が主流となったことで、戦争は長期化した、とも言われています。
その長かったヨーロッパでの戦況が 1918 年にはようやく休戦となるのですが、その前年にはドイツの潜水艦による無差別攻撃がアメリカの商船にも及び、それをきっかけとして、ついにアメリカ合衆国も参戦しています。
とは言っても、主戦場は遠いヨーロッパであるためもあってか、第二次世界大戦時のような緊迫感は無かったのではないでしょうか。

Leora Brooks

そんな 1918 年の 1 月27日、Mississippi 州 Holmes County の Richland にあったプランテーションで暮らす Leora Brooks というまだ 15 才の女性がひとりの男の子を生みました。
それは「私生児」であり、今もって、その本当の父は誰であったのか、は知られておりません。
その子は Elmore と名付けられましたが、すぐに Leora Brooks をその子供とともに迎えた、言わば継父 Joe Willie James が名付けた、とも言われております。
その後、一家はいくつかあった Durant 農園を小作農として渡り歩いていた、とも言われますが、主に母の意向で「やりたいことをやらせる(放任主義的な意味合いではなく、子供の自主性を尊重する、という)」育て方をされたらしく、資料によって 7 才、あるいは 10 才と多少の違いは見受けられますが、そんな年齢で自作の Diddley Bow* で音楽に親しみ始めたようです。

Diddley Bow

* Diddley Bow: Diddle は「騙しとる、インチキ」のムリヤリ形容詞化で Bow はモチロン「弓」。
もともとはホウキの柄にブラシ状の藁などを縛りつけているワイヤーをほどいてしまい、それを弦として張った単弦の楽器。その作り方を解説したサイトによれば、納屋の壁やドアの枠などに、適当な間隔で二本のしっかりしたクギを打ち(全部打ち込んじゃっちゃダメよん)その二本の間にホウキをバラして手に入れた針金を「なるべくピンと」張ります。そしたら一方のクギのそばで弦の下に差し込んで、そこで軽く弦が折れる感じになる高さの木片(弦を持ち上げる側は尖っている三角形の断面が望ましい)を用意して差し込んでブリッジとします。これを前後させることでキーに合わせてチューニングも出来る、ってワケでしょか?
その木片で持ち上げたそばをつまびくのですが、音高は太めのクギ、あるいは瓶のクビの部分、あるいはポケット・ナイフなどで押さえることによってコントロールします。いわゆる単弦スライド、ですね。
この場合、弦の振動は木片が駒となって「納屋の壁」あるいは「ドア枠」を共鳴させることで、ある程度の音量は確保できたんじゃないか、と思います。
ただ、そのままでは、その場所に行かないと弾けませんから、不便っちゃあ不便ですよね。
それを解消するために、割としっかりした(かなり強く針金を張っても折れたりしない程度の)棒状、あるいは長さとある程度厚さのある板の両端に釘を打ち、同様にしてブリッジも作れば、「ポータブルな」 Diddley Bow が完成します。
モチロン、共鳴する構造を持っていませんから、音量は期待できませんが、逆に部屋の中でいちんちじゅう弾かれて、親がキレる、なんて危険性を少しは回避できたかもしれませんねえ。
で、もう少し悪知恵がついてくると、それに共鳴させるための箱状のものを取り付けたりする、と。Cigar Box(葉巻の箱)とかね。
ブルースにおけるスライド奏法(とりわけ単弦スライド?)の源泉である、とも言われておりますが、ま、中には、そんな経験は無くて、ハワイアン・スティールに触発されて、なんてブルースマンだっていたかも?
この Diddley Bow を前後逆転さすと Bo Diddley になる・・・

10 才のころには( Diddley Bow じゃなく self made guitar としている資料がありますから 7 才で Diddley Bow、10 才では「ポータブルな」自作ギターになっていた、ってことかもしれません。一説ではその自作ギターっての、ホウキの柄とラード缶で出来ていた、とか)ギターを弾きながらブルースを歌っていた、と言いますから、いや、なかなかに早熟なほうだったのかもしれませんよ。
ところで、Diddley Bow にからんで、それを前後ひっくり返したネーミングの Bo Diddley ですが、本人もそのジョークが「お気に入り」だったようで、彼のギターがモロ Cigar Box Guitar のデザインになってるんですよねー。
本来はホウキをバラして手に入れたワイヤーを張った自作ギター、の意味なんですが、それが転じて、ちゃんとした弦が張ってあろうが、本体が自作なら、それも「 Diddley Bow 」ってことだったんでしょね。

さて、それはともかく Elmore 少年のほーは、いつごろ「納屋の壁」から、抱えて持って歩ける Diddley Bow、それとも一足跳びにホントのギターに移行したのか、そこらを詳しく著述した資料にはまだ出逢っておりませんので、正確なことは判りません。
ただし、彼自身が「自分の」ギター( National の 20$ のもの、だそうで)を手に入れたのは「 10 代の前半だった」ようです。

Radio Set

すでに 10 才のころにはブルースを弾き語っていた、といいますが、おそらく 10 代の半ばでは、近所で催されるパーティに招かれ(てか、押し掛けて、かは判りませんが)チップを稼げるようになっていたから、ギターを買うことが出来たんじゃないでしょか。資料によっては、その頃すでに Juke Joint から仕事が来ていた、としているものもあります。

ところで、この頃の「メディア」の状況はどうなっていたのか?といいますと、1930 年代半ばの市場調査では、黒人家庭の 27.6% が「蓄音器」を所有していた、とされており、同時に調査された AM 放送の受信機は 17.4% と、その二つの中だけで計算し直すと、蓄音器を所有している黒人の家庭の 63% はラジオ・セットも所有している、と言うことになります(あ、これは、蓄音器を持ってる家庭が、必ずラジオ・セットも持ってる、っちゅー前提じゃないと成り立たないか?なかにゃあ、蓄音器は無いけどラジオはあるぞう、とかその逆もあるでしょから、もっと数値が下がるかも!)。
安直に考えれば、身銭を切って「ソフト(つまり 78 回転の SP ね)」を買わなきゃいけない蓄音器より、無料で次々と音楽が流れ出す Radio Set のほーが良さそうな気がいたしますよね?
それがなんでカンタンに普及しないのか?ってえと、まず当時の黒人労働者たちの収入から考えるとラジオ・セットそのものがけっこう「高価」であったこと。そして住環境の問題もありますが、電力供給を「受けていない」家屋もかなりあったそうですから、手でゼンマイを巻きさえすれば聴けた蓄音器とはワケが違う、ということ。さらにもうひとつ、やはり初期の放送は「白人の富裕層」を対象として始まっていたために、その放送内容も当然のごとく「白人文化」に偏っていた、ということ。ただし、この最後の項は、徐々に黒人たちがラジオ・セットを手にするようになり、それにつれて放送内容にも「黒人を対象としたもの」が現れてくるにつれ、別な作用を黒人文化にもたらしたのではないか、と考えることができます。
それは、それまで一般的な黒人たちが触れる音楽というものが、Juke Joint で仲間と呑みながら一緒になって踊るバックに流れてるブルースの演奏であったり、あるいはハウス・パーティに出るその辺のストリート・ミュージシャンの、これもやはりブルースやノヴェルティばかりだった(と思うんですよ)ものが、こんどはラジオからカントリーであるとか、ヒルビリー、はてはハワイアンなど、様々な音楽がタレ流されるワケです。
それらが黒人音楽に与えた影響というものも軽視することはできませんよね。

さて、以下は以前ワタクシが Paramount Records に関して書いた過去の日記の一節でございますが、それをふたたびここで繰り返しておきましょ。

当時の放送内容では、黒人音楽が On Air されることは稀であり、その意味ではレース・レコードを聴くことの「替わり」にはなっていなかったハズです。しかし、ラジオの普及は黒人の聴く音楽の範囲をこれまでの「自分たちの音楽」中心から、白人たちの音楽にまで広げたことも確かで、そのことがブルースに与えた影響が、逆に「ある種の」共通言語を持つ結果となり、それによって白人にもブルースが存在を認められてゆく獲得資質のひとつとなっていったのかもしれません。


Belzoni 1937

http://www.slidingdelta.com/bluesmen/elmorejames.html では Elmore James が Durant 周辺で演奏をし始め、チップを稼ぐようになったのを 1932 年、彼が 14 才のときから、としております。やがて 1937 年には彼は Belzoni に移りますが、多くの資料ではそこで Sonny Boy Williamson IIRobert Johnson に出逢った、としております(もちろん異説もございまして、それ以前、おそらく 1930 年代の半ばにはすでに出逢っていた、としている説もあります)。
その Belzoni では、継父 Joe Willie James と母の Leora との間に生まれたとすると、この名字はちゃうよなー、ってとこから、もしかするとその後、また違う男との間に生まれたんじゃないか?と思われる異父弟の Robert Earl Holston とともにコンビを組んで演奏したりしていたようですが、やはり重要なのは Robert Johnson 、そして Sonny Boy との交流でしょう。
おそらく Elmore James のあの独特のスライド奏法がこの時期にスタートしているのではないでしょうか。
もちろん、それをその場で見ていたワケじゃありませんから「憶測」でしかありませんが、そのインテンシティではかなりの差があるとは言え、基本的には Robert Johnson から受け継いだものが彼の中で独自に「発酵」して熟成されたのではないか、と考えています。

とは言っても、そのヴォーカル(の距離感、インパクト、温度)など、二人の間には相当な差異もまた存在し、そこらが「単なるフォロワー」ではなく「 Elmore は Elmore 」たらしめているところなのでしょうが。
ここで、元々は 1934 年の Kokomo ArnoldSagefield Woman Bluesに由来する、と言われる Robert Johnson の Dust My Broom に触れ、Elmore James の奏法自体の代名詞となる「 Dust My Broom 調」も獲得したのだ、とする大勢の論調には、異論はございません。ま、諸手を挙げて「賛成!」ってほどではございませんが、まあ、そう考えるのが自然、ってもんかもしれませんね的ニュアンスで。

Robert Johnson

Robert Johnson のギター(ま、ブルース自体、とも言えますが)は、突然変異的に、それまでのブルースでは「あり得なかった」ものを創造した、というよりは、それまでのブルースを見事にブレンドして「完成形」を作り上げ、次世代にそれを手渡した、言わば結節点であったのではないか?というのがワタクシの Robert Johnson 観なのですが、一方この Elmore James のブルースは、まったく独自の個性に特化した、言わばエキセントリックな「発展形」という気がいたします。
その点、よく Elmore のフォロワーなどと言われる Hound Dog Taylor にしても、Elmore とは本質的に異なる、彼ならではの個性をとことん発揮した、まさに「 Hound Dog Taylor のブルース」を形成していると思うんですよね。
ま、そのあくまで個性を深化させてく生き方が「フォロワーだ」ってんなら、そうも言えますが、たいてーは単にスライドのスタイルだけを云々してるだけでしょ?その意味では Elmore のフォロワーなんていませんよ。

あ、久しぶりに見たけど、いまだに「アイスクリームマン」のオリジナルをエルモア、なんてへ〜きで書いてるサイト(それも初心者がさんこーにしそうなとこ!)がある!
やれやれ・・・

Weimar

さて、Elmore James が Durant 周辺で演奏をし始め、チップを稼ぐようになったのを 1932 年、彼が 14 才のときから、と書きましたが、そのころ、ヨーロッパでは 1918 年に休戦となった第一次世界大戦後の様々な変化が色々な位相で発現してくるのですが、中でももっとも重要な変化として捉えられるのが、敗戦国ドイツに於ける政治的な潮流でしょう。
まず、第一次世界大戦の後半にロシアで起きた「革命」は当然、ヨーロッパにもその火種を移植しようとする動きを招いたのですが、ドイツにあっては「ドイツ社会民主党」がそれを阻み、もはや国家というよりはドイツ各地の都市国家の連合体であるかのような国民議会がドイツの都市 Weimar(日本ではもっぱら「ワイマール」として教科書にも記載され、その名で通用していますが、正しくは「ヴァイマール」です)を中心として設立され、そこで 1919 年に成立した「憲法」に相当する「ヴァイマール=ライヒ憲法」(ワイマール憲章、という言い方もあったかも)に基づく「ヴァイマール共和政」がスタートします。
ただし、この政体は敗戦にともなう「戦争賠償金」の調達に苦しみ、国内的にはインフレが進む中、全国的な規模の政党がないせいもあって政治は迷走し、国民の政治に対する不満が嵩じていったことで、ついにはある政党の独走を許すこととなります。

Adolf

1889 年 4 月20日、オーストリアに生まれた Adolf Hitler は 1903 年には父を、そして 1907 年には母を失ったことにより遺産で生活しつつ疑似科学にハマって行ったと言われていますが、ちゃんとした教育に「ついて行けない」ヤツに限ってその手の怪しい「似非科学」に傾倒する、ってのはマーティン・ガードナーが指摘したとおりです。
しかも 1913 年にはオーストリア・ハンガリー帝国に徴兵されそうになってミュンヘンに逃亡(?)。
翌年からの第一次世界大戦では、それでもドイツ軍の「伝令」として生き延びるワケですね。
敗戦後は、ドイツ労働者党に参加した彼はその中で頭角を現し、やがては独裁が可能なように党規も改訂し「国家社会主義ドイツ労働者党」とし 1921 年には党首となっています。
しかし、イタリアでのファシストの示威行動に触発されて起こしたクーデターが未遂に終り、党は非合法化され、彼も収監されてしまうのですが、その獄舎内で執筆した、とされるのが「我が闘争」でした。

1924 年末に釈放されるや翌年にはナチ党を復活し、次第に右翼政党などを吸収して党勢を伸ばします(ここら最近のフランスにも似た動きがありますよねー)。
「世界大恐慌」の中、第一次世界大戦の戦後処理を配剤したヴェルサイユ条約はきわめて過酷な賠償をドイツに強いるものであったため、ドイツの国民感情に刺さった「トゲ」だったワケですが、それを無視し、むしろ国民のプライドをくすぐるようなヒトラーのアジテーションは次第に国民の多くに受け容れられてゆくのでした(ま、民族としての「誇り」だとかを持ち出す政治家にロクなのはいないのよ。ミロシェヴィッチを覚えてる?)。

Rome

ただ、この「国家社会主義ドイツ労働者党=ナチ党」の台頭を許したのはドイツ国内の意向ばかりではありませんでした。
時のローマ法王、ピオ 11 世(ピウスとも言う。1857-1939、教皇として在位したのは 1922 年から)は、1931 年に回勅「社会秩序の再建」の中で、共産主義の、一切の宗教を排斥する姿勢を「非人間的」であるとして糾弾する一方、労働組合の意義については是認し、善良なキリスト教徒である労働者には、「共産主義に与しない」良識ある中立的な組合への参加をうながしています。
それが 1933 年に、支持者の増大という事実を突きつけられた、時の大統領ヒンデンブルグによって(不本意ながらも)ヒトラーが首相に任命された時にピオ 11 世は、「共産主義と、アナーキズムに対抗し、秩序を守ろうとしている」ヒトラー政権の誕生を 3 月の枢機卿会議の席上で「支持する」と発表しているのです。
この時のローマ法王の発言は現在でも、様々な位相で論議の元となっています。

よく、ブルースは悪魔の音楽、ゴスペルは神の音楽、といった選別が話題になりますが、たとえそれが法王庁であれ、人間のいるところ、思惑と言うか、「敵の敵は味方」的な「政治」が介入してしまうもののようです。
共産主義者に比べたら、悪魔の方がまだマシだ。なぜなら悪魔は「神」を認めて「対立」しているのだから。というワケですね。
ま、ローマン・カトリックの対立勢力による、もっとも「非好意的な」誹謗では、法王庁がユダヤの民への「嫌悪(なにしろイエス・キリストはユダヤによって処刑されたのだから、と)」を持っていたがために、ナチス・ドイツのジェノサイドを制止しなかったのだ、なんてことまで言われています。モチロン法王庁は、ドイツ国内の聖職者を守るために、やむを得ず「多少」すり寄ったのだ、という見解もあるのですが。

ただし、Elmore James がやがて関わりを持つことになる「悪魔(?)」はそれではなく、西の方角、日付変更線の彼方から現れることになります。

At China

19 世紀末、徐々に世界は「全体主義」への傾斜を強めて行くことになるのですが、それは極東の一帝国でも例外ではなく、その意味では、「全体主義」はまさに「時代のトレンドであった」、とさえ言うことが出来るのかもしれません。
1904 年、まがりなりにも大国ロシアとの戦争に「勝利」し、それまではロシアの手にあった中国の旅順・大連の租借権、またその旅順から長春までの鉄道路線、そしてそれにつながる支線や鉄道を維持するための関連設備・施設までも入手した大日本帝国でしたが、それらはいずれも、本来ならば中国政府に返還されるべきものばかりであり、当然ながら、日本がそれらを自分のものとして占有することが現地で歓迎されるハズもなく、そこで、それらの鉄道及び租借地の治安を維持する、という名目で日本から派遣されたのが「関東軍」でした。
当初、その関東軍とは「友好的」であった奉天の張作霖が次第に中国共産党に接近する気配を見せたことから 1928年 6 月 4 日には彼を暗殺し、そればかりか、その行為そのものを「国民党」の仕業であるかのように偽装し、さらに軍事的危機感を演出した、とも言えるでしょう。

暗殺された張作霖の息子、張学良は当然ながら反日感情を持つようになり、まず、満州鉄道と並行する新たな路線を建設して満鉄から鉄道収入を奪う策に出ました。
これに危機感を抱いた関東軍は一計を案じ、「お得意の」自作自演の偽装工作を実行します。
1931 年 9 月18日、奉天の北にある柳条湖を通過する南満州鉄道の路線を自ら爆破(ま、実際には修理も必要ない程度の「音だけ」の小爆発だった、とも言います。現に「爆破直後」その現場を列車が「何事もなく」通過して行った、ということですから)しておきながら、これを張学良に率いられた中国東北軍による破壊工作と言いつのり、それを口実に中国東北部を軍事制圧し、長春、営口などを占領していきました。これによって関東軍はさらに軍備を充実させる口実を得たことになり、逆に現地での反日感情はさらに強まっていきます。

本土の日本政府は戦線をこれ以上拡大しない、という方針だったのですが、軍部はこれを無視、張学良が逃げ込んでいた錦州を、「地上からの対空砲火を受けた」という口実で爆撃!
ううう、最近もどっかでこんな説明、聞いたよね〜。
地上のレーダー基地からロック・オンされたのでこれを破壊した。ってヤツ・・・

そして満州を「非中国化」するために、かっての清朝の最後の皇帝でもあった第 12 代皇帝、宣統帝(せんとうてい、1908 年 - 1912 年)愛新覚羅溥儀をかつぎ出し、満州国皇帝、康徳帝(1934 年 - 1945 年)として帝位につかせ、占領を正当化しようとしたのです。

Shang-Hai

こんなことやってて、世界的に通用するハズはなく、まずこの動きに不快感を示したのはアメリカでした。
このような日本軍の行動は、1928 年 8 月27日、パリでアメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリアそして日本など 15ヶ国が署名した「パリ不戦条約(国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄を規定した)」に違反する、として旧状に復することを主張したのですが、日本はモチロンこれを拒否。それどころか、満州への注視を逸らすために国際都市上海で日本人僧侶が中国人に殺害された「という」事件を演出(この事件に深く関わっていた、とされるのが有名な「男装の麗人」川島芳子ですが、当時、その川島芳子の秘書であった人物は実はワタクシの義母の実姉であったのでございます)し、これを口実に争乱を煽り、ついには市街戦へと拡大していきます。
そして世界の目が上海に集まっている間に満州国は 1932 年 3 月 1 日、「建国宣言」をしてしまった、っちゅうワケです。

1937 年、つまり Elmore James が Belzoni に来た年ですが、日本側の主張では「7 月 7 日に北京南部の日本軍の駐屯地に対し、盧溝橋を挟む対岸の竜王廟(国民党軍がいた、とされるところ)から発砲され、さらに合流した日本軍にもまた発砲があり、一時日華双方とも事態を収拾する方向で合意したものの、再三の銃撃をうけて日本軍が応戦。」という事でした。
この件を討議する会談がひと月後にセットされたがそのさなかに日本の海軍将校が射殺される事件が発生し収拾は失敗しています。
一応、後の中国共産党の資料に、盧溝橋事件は劉少奇の指示で日華両軍の間に戦闘を起こさせるために行われた、という記載があるとも言われているのですが、原資料が発見されていないために不明とされています。
常識で考えれば、以前の満州事変や錦州爆撃と同様に日本軍による自作自演の疑いが濃厚でしょう。

その真相はどうであれ、間違いなく日本軍は中国を蹂躙し、中国国内ではさらに燃え上がる反日闘争、と混迷を深めていくワケですが、これが流れついて行く先は当然「自信過剰」の大東亜共栄圏などという幻想から始まる「第二次世界大戦」となるワケです。

さて Elmore James ですが、1938 年に Robert Johnson が死んだ後、Sonny Boy Williamson II と南部をまわったりもしていたようですが、1939 年には Sonny Boy と別れ、自分のバンドを作った、としている資料もあります。また、時期的にはおそらくこのあたりであろうとは思うのですが、彼はエレキ・ギターを使うようになり、また一部の資料によればラジオ・セットの修理の仕事をしていた関係で、アンプの回路などを自分好みに改造して(おそらく初段のゲインを上げたりすることで「天井にぶつかる」つまりヘッド・マージンでクリップさせて)今でいうディストーション・サウンドが出せるようにした、とも言われていますがそこら真相は不明でございます。

そして 1941 年、彼は海軍に入り、太平洋海域で日本軍との戦闘に従事しグアム侵攻などを経験することになるのでした。

At Poland

そもそも第二次世界大戦は、先の大戦( W.W.I )の結果、ポーランドが復活して海にまで達したことにより、旧ドイツ帝国の東の端、プロイセンがそれによって遮断され、「孤立」してしまっていたことから、名目上はその「東プロイセン」、そしていわゆる「ポーランド回廊」に住んでいる旧ドイツ帝国民を「保護する必要から」、と称し、1939 年 9 月 1 日にヒトラーが北部ドイツと、ポーランド回廊によって分断されていた「飛び地」東プロイセンの「北方軍集団」さらに南部ドイツとスロバキア駐留の南方軍集団を合わせ、実に 150万の兵力を挙げてポーランドに攻め込んだことで始まった、とされています。

これに対してイギリス及びフランスが即座に( 9 月 3 日)「宣戦布告」。しかし、宣戦布告はしたものの、両国ともにすぐに軍事行動に移れるような状態じゃなく、そのスキを衝いてドイツ軍はポーランドを自由に蹂躙することが出来ました。
しかも 9 月17日には、秘密裡に締結されていた「独ソ不可侵条約」をいいことに(?)ソ連軍が、ドイツ軍侵攻によって手薄になっていたポーランド東部へ侵攻してきます。
それじゃあ、ピオ 11 世が夢見ていた「第三帝国による共産主義の抑え込み」などというシナリオは、実に笑止千万な「茶番」であったワケですね。
この開戦当時のドイツ機甲部隊の装備、特に戦車などは、第一次世界大戦での敗戦によって新規開発を禁じられていたため、トラクターと偽装して開発した 7.92mm 機関銃 X2(!)の PzKw I や、武装を 20mm 機関砲に強化した Sd Kfz 程度のまだ不充分なものでしたが、英仏軍の参戦が遅れたために、それでもポーランドでは戦果を上げることができました。
そして 9 月27日、ポーランドはドイツに降伏しています。

さらに翌年にはドイツ軍がデンマーク、ノルウェイを占領し、さらにはその戦鋒を西に転じ、ベネルクス各国とフランス東部を襲い、Fritz Erich von Lewinski の立てた戦略プランが「当たった」こともあって 6 月14日にはついにパリにまで到達し、以後フランスでは、親ナチ的なヴィシー政権と、イギリスに亡命したド・ゴールによる「自由フランス政府」が併立することになるのですが、アメリカはまだ参戦していません。
言わばブリテン島の対岸にまで迫ったドイツ軍は、英国上陸の下準備として、航空機による爆撃や、英空軍機の殲滅を目指した攻撃を続けましたが、Battle of Britain の名で知られる英空軍の反撃にあって、その目的は遂げられずに終わっています。

そして 1941 年、戦火は地中海周辺、バルカン半島やアフリカ大陸北部などにも拡大し、さらに独ソ不可侵条約を破棄してドイツ軍がソ連軍を攻撃しています。
この 1941 年は Elmore James が海軍に入った、とされている年なのですが、その正確な時期が判らなかったため、その前後関係が特定出来ませんが、12月 7 日(日本では時差の関係で 8 日となりますが)、ハワイのオアフ島のアメリカ艦隊が突如、日本軍機に襲われ、壊滅的といっていい打撃を受けたことにより、アメリカ合衆国も連合国側として参戦することになりました。

この攻撃から参戦決定へ、という流れを受けて Elmore James が海軍(以前にも違うとこで書きましたが、アメリカには陸・海・空の三軍の他に S.A.C. ─ 戦略空軍司令部、 U.S.Marine ─ 海兵隊の全部で「五軍」があります。戦略空軍は冷戦時代に発足したものかもしれませんが、海兵隊は第二次世界大戦当時にはすでにありましたが、海軍と海兵隊の区別がついていない人も「かなり」おられるようなので、資料では Navy となっていても、スンナリと信じるのはな〜、っちゅうとこがあります。ただし、海兵隊は Franklin Delano Roosevelt 大統領による、各軍における人種差別の廃止命令によって 1942 年に「ようやく」黒人兵士を受け入れた、とされていますから、この Elmore James の場合には 1941 年ということで、やはり US Marine Corp ではなく US Navy でしょう)に入ったものなのか、あるいはそれ以前に入っていたものか、は判然といたしません。
ただし派兵されたのは太平洋海域だったそうで、その 3 年後のグアム奪還に参加していたと言われております。

今でこそ、日本から最も近いアメリカ(?)として日本人観光客が大挙して押し掛け、それが島の産業を半分は支えているようですが、この島が西欧的「世界地理」上に登場するのは 1521 年、マゼランによって「発見」されたことによっています。ですからまず、スペイン領となり( 1565 年)、次いで米西戦争によって 1898 年にアメリカのものとなりました。

1941 年の 12月 8 日(これは日本時間ね)の午前 2 時、マレー北部に日本軍が上陸し(これが、いわゆる「太平洋戦争」の実質的なスタート)、続いて午前 3 時19分には日本の機動部隊がハワイの真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を攻撃し、その「後」の午前 4 時に駐アメリカ日本大使がアメリカ側にようやく最後通牒を渡したため、実際の戦闘開始から 2 時間も経っての通告から、「不意打ち」「アンフェア」というアメリカ国民の意識が定着することとなります。
直後、アメリカ及びイギリスが日本に対して宣戦布告をしました。

日本軍は南太平洋にも侵攻し、1941 年12月 8 日と 9 日に九五式水上偵察機などでグアム島に駐留していた米軍の地上施設を爆撃し、続く 10 日には日本海軍の陸戦隊が上陸を開始し、さほどの戦力ではなかったアメリカ海兵隊と現地登用の守備兵はすぐに降伏し、その間の日本側の死者は 1 名だけだった、と言われています。

やがて戦況が変化し、再建なったアメリカ太平洋艦隊の本格的な反攻によって日本軍の版図は徐々に縮小し始めて行きました。
特に 1942 年 4 月18日、東京は、犬吠崎の東方 1,235km の海上にあった米空母 Hornet から飛来した、実に 3,000km という航続距離を持った North American B-25 Mitchell 6 機の空襲を受け(同時に川崎、横須賀、横浜、名古屋、大阪さらに神戸上空にも)、この時は予想だにしていなかったためもあって、爆撃を受けてから「空襲警報」が出されたほどで、軍部にとってはきわめて衝撃的な事態となりました。

さて、開戦以来、香港を陥とし、マニラを制し、ラングーン占領、ジャワ制圧と連戦連勝に浮かれていた帝都に冷水を浴びせた東京空襲でしたが、そのころ、アメリカ国内はどんな状況だったか、というと・・・

In America

お馴染みのブルースマンたちの動静ですが、まず Elmore にもゆかりの Arthur Crudup が Mean Old Frisco Blues を初レコーディングしたのが 1942 年です。また、後にそのバックで演奏することになる Big Joe Turner が(当時はまだ "Big"がついてなかったみたいですが) Meade Lux Lewis と組んでツアーに参加した年だし、あの David "Honeyboy" Edwards が Alan Lomax によってフィールド・レコーディングされ、Chuck Berry はペンシルヴァニア州 New Castle の WKST で放送の仕事につき、Louis Jordan は Knock Me a Kiss と I'm Gonna Leave You on the Outskirts of Town をヒットさせ、Eddie "Cleanhead" Vinson の Okeh 初吹き込み( When My Baby Left Me )もこの年。また Robert Nighthawk は Helena の KFFA で Bright Star Flour Hour に出演を開始しています。
ま、ブルースとはカンケー無いけど、もはや永遠の大ヒット?となった Bing Crosby の White Christmas だってこの年です。
トピックを拡大しますってえと・・・まず 1942 年 1 月 6 日には PAN-AMERICAN Airlines が民間航空会社としては始めて、世界を一周出来る航路を持っています。
同じく 13日、Henry Ford はプラスティックを多用して、従来より 30% ほども軽量な自動車のパテントを申請。
2 月に入ると 24日には情宣活動のための Voice of America がスタート。
3 月19日には Chicago でサラブレッドの競走馬協会が発足しています。

んまあ、余裕ですわねえ。
あ、ところで、公式には、U.S.Navy にカラード、つまり白人じゃない水兵が始めて採用されたのが、この 1942 年 5 月20日、という資料が存在しております。
おやおや?では Elmore が 1941 年に海軍に入った、ってえ記述と矛盾いたしますねえ。
別な資料では 1940 年 6 月の時点で、海軍には 4,007 名の黒人がいた、とする記載に出会いました。しかし、それらは「戦闘員」としてではなく(ただし 6 名ほどの例外もいた、と記されてはおりましたが)乗務員、ま、言わばサーヴァント的な存在であったようです。
ただし、開戦時には非戦闘員として参加していても、戦況によっては(現に、アリゾナの艦上では、斃れた担当兵士に替わって対空砲火を操作し、飛来した日本軍機を撃墜せしめた、という黒人軍属の存在が記録に残っています)兵士に「昇格(?)」していったケースもあったかもしれません。
そのヘンの情報に辿りつけなかったので、定かではありませんが、もし Elmore James がラジオ修理などのスキルを持っていたとしたら、通信機器の保守などの任務についていた「可能性」があり、実際の前線での戦闘(特に先鋒となって上陸用舟艇で乗り込むなんてハードな任務)には就いていなかったのかも?

South Pacific

1942 年になって、東京が空襲されたことは、ある意味、日本の太平洋における制空権がずいぶん「縮小」してしまった、という現実を暗示するものでした。
そこで、アメリカの空母などを殲滅しよう、という発想からミッドウェイ攻略が計画されます。
基本的な作戦としては、ミッドウェイ島を攻撃することでアメリカ太平洋艦隊が出てくるハズなんで、これを総力で叩き潰す、と。

ところが、空母 6 隻(アメリカは 3 隻)、戦艦 11 隻(アメリカはゼロ!)、重巡 10 隻(アメリカは 7 隻)、軽巡 7 隻(アメリカは 1 隻)、駆逐艦 53 隻(アメリカは 14 隻、ただし 17:9 としている資料もあります)、艦載機 261 機(資料によっては損害だけで 289 機としているものもあります。アメリカは 233 機プラス地上基地の 120 機)という圧倒的に優位なハズのラインナップで向かった日本海軍でしたが、アメリカ側は日本軍の暗号通信をすでに解読しており、前もって作戦を練ることが出来ていたのです。
日本側は空母の護衛として霧島と榛名の 2 隻の戦艦をそばに配しただけで、大和を含む残り 9 隻の戦艦は遥か後方を航行していた、とされます。
ミッドウェイ島をハワイ同様に「奇襲」するハズが、米軍はそれに備え、島にも航空機を 100 機以上待機させ、空母からの艦載機と合わせ、圧倒的な多数で準備していたのでした。
ケッキョク赤城、加賀、蒼龍、飛龍の 4 隻の空母はこの順番に被弾し相次いで沈没しちゃいます。

この失敗により日本軍内での海軍の発言力が弱まり、それが陸軍主導の南方の諸島部への展開につながった、という分析もあるようですね。
つまり、アメリカ=オーストラリアの連絡を断ち、孤立させてオーストラリアの力を削ごう、ってワケかな。
そこで侵攻したのがガダルカナルで、さっそく同島に飛行場を設営しています。
ただし、その位置は補給線の伸び切った先端でもあり、米軍にとってはもっとも叩き易く、また叩いた効果が大きいポイントでもあったようです。
1942 年 8 月 7 日、米軍は艦砲射撃と航空機による爆撃の上で上陸を開始し、陸戦を想定していなかった、という日本軍はすぐに敗走しています。そして、これがあの悲惨な地獄の始まりとなったのでした。
8 月20日には「米軍の」飛行場として運用を開始。日本軍は部隊を補強などして奪還を狙いましたがすでに周辺の制空権はアメリカ側の手にあったため、作戦のために 1万の兵員が必要である、と判っていてても、まず用意できるのがその 60% ほど、それの半数を輸送の途中で失い、さらに上陸させるだけでまたその 1/3 を失うありさまで、ケッキョク戦地に辿り着ける日本兵は必要な戦力の 20% 前後だった、と言いますから、それではまともな作戦も出来る訳がなく、いたずらに夜間の奇襲に拘泥しては多大な被害を蒙っていたようです。
さらに悪いことに、補給線が長大だ、ということは物資だって必要量の(いいときでも) 2 割ほど、ヘタすると、輸送船はすべて撃破されちゃうワケですから、弾薬どころか、生きていくための食料すら届かなくなり、「地上の地獄」化してゆきます。
1943 年、撤退がようやく決まり、およそ 1万人の日本兵が島を脱出しますが、その間の死者は 2万を超えたと言われています。しかも、その中で戦闘によって死亡したのは 5,000 人ほどであったと。

この飢餓の島はしかし日本軍の太平洋における未来を暗示するひとつの予兆でもあったのです。
アメリカ海軍が、開戦時に建造を開始した空母 20 隻以上が 1943 年にはほぼすべて出揃い、同年秋からギルバート諸島、翌年にはマーシャル群島、トラック島と日本の占領地をひとつづつ潰し始めていました。
さらに日本の本土を爆撃する航空機の基地として、かっての米領グアム島やサイパンも考慮してマリアナ沖から攻撃を開始します。これに日本の機動部隊が攻撃に向かうのですが、アウトレンジ作戦と称して攻撃圏外(航空機の航続距離には自ずと限界があるため、作戦行動の後、無事に帰投できる距離が攻撃圏内のボーダーとなります。それより遠くから発進しても、その間に「空母も前進する」ので、帰りの距離は短くなる。・・・ハズだったんですが)から発進し米空母を攻撃する予定だった日本の攻撃機群は、レーダーによって行動が筒抜けになっており、高々度で待ち伏せしていた米軍機の餌食となってその大半を失ってしまいます。
それをかいくぐって米空母に接近しても、1943 年初頭から対空砲火に採用された最新技術、VT 信管( VTF: Variable Time Fuse。なんと弾頭から短波長の電波を発信し、航空機に接近すると返って来る反射波を検知して爆発する自動信管。その有効距離は 27m から 60m と諸説ある)を装備した高射砲の弾幕で多大な犠牲を出し、それどころか米潜水艦の雷撃で空母翔鶴と大鳳を失い、飛鷹は爆撃されて沈没。日本軍で残ったのは機種とり混ぜて僅か 61 機だけとなってしまいます。

このマリアナ沖海戦の敗北は、すぐさまサイパンやグアムの日本支配の「危機」を示唆するものでした。
そしてサイパンでの民間人をも巻き込んだ悲惨な結末は、米軍にも「考え直す必要を与えた」ようで、グアムではまず海兵隊と陸軍の上陸部隊を島に揚げる前に、徹底した艦砲射撃と爆撃、地上掃射が行われています。
そのための「囮」の揚陸部隊を動かして、それを攻撃してくる日本軍の砲火の設置位置を探り、そこを徹底的に砲爆撃(米軍艦船からの砲撃では 28,000 発が撃ち込まれ、米軍機が投下した爆弾の総量は 7,000 トンを超える、と言われています。日本側の航空機はすべて破壊されました)して重火器を殆ど無力化してから本当の上陸に移ったのでした。
この準備のため米軍は 600 隻(兵員及び物資の輸送船も含む)の艦船、そして 2,000 機の航空機を投入し、兵力は実に 30万人を集結させています。
さらに先陣の上陸後も、サイパンでの教訓から、たこつぼと呼ばれる塹壕内の兵士をすべて斃してから前進し、被害を抑える、という戦法を採ったようです。
戦時資料のいくつかの記載を信じるとすると、初期の上陸作戦に投入された 55,000 人は精鋭(?)である海兵隊と陸軍上陸部隊であり、海軍は 7 月21日の上陸成功、さらに翌22日の掃討作戦開始による自軍エリアの拡大を待って Agat に上陸したのではないでしょうか。

てなワケで、我らが Elmore James 君は「おそらく」上陸部隊の奮闘ぶりを、洋上から見守っていたのではないか?と愚考する次第でございます。
ところで、この 1944 年のヨーロッパでの状況は、ってえと、以前 Sly のとこでも書いた Monte Cassino の戦いが始まった年で、さらについでに言うと(?)この年の夏、と言いますから、このグアム侵攻と相前後したあたりに「あの」 Caldonia が Louis Jordan によって初演されておるのでございますよ。
また、この年、イギリス空軍( Royal Air Force )はベルリンに 2,300 トンの爆弾を降らせています。
また米軍機がドイツの航空機製造施設を爆撃し、6 月 5 日には枢軸国の首都として初めてローマが連合国側に占領されています。その翌日には遂にノルマンディー上陸作戦がスタートし、ドイツ軍はイギリス上陸どころか、後退していくハメになりますが、イギリスに対する V1 ロケット攻撃を開始しました。
なお、グアムに米軍が上陸した 7 月21日の前日(ま、実際には時差のかんけーで「同じ日」みたいなもんでしょーが)にはヒトラーの暗殺未遂が起きています。

音楽の世界では、あの Sly Stone が 3 月に生まれ、14 年のちにプラターズが Buck Ram の歌詞を乗せてヒットさせた有名なナンバー Twilight Time のオリジナル(そう。最初のヴァージョンは Three Suns による歌詞のないインスト・ナンバーだった!この Three Suns のメンバーも、歌詞を作った Buck Ram も「白人」)がリリースされたのもこの年。またシナトラが映画初出演し、ヒット曲では Jimmy Dorsey の Besame Mucho が出た年でもありました。

At Guam

グアム島の日本軍はメイン(?)の第29師団と、主に満州方面から配転されて来た独立混成第48旅団(陸軍)が 1944 年 3 月に補強され、米軍の上陸直前の総兵力は 20,810 名だったそうです。
このとき、本来ならばサイパン島にいなければならなかったハズの第31軍司令官 小畑中将が、サイパンを米軍に奪取されてしまったため、そのままグアムにとどまってそこからパラオ方面の指揮をとることとなりました。

1944 年 7 月21日早暁、そこにまず突入してきたのはアメリカ第 1 臨時海兵旅団とアメリカ陸軍の第77歩兵師団の第305連隊でしたが、この上陸部隊だけですでに日本側の守備兵力の 2 倍以上です!
Agat では約 2万人の海兵隊からなる上陸部隊がすぐに日本側の守備線(重火器は海上からの砲撃と空爆で殆ど無力化していたため、兵力差がモロに出ますからね)を破壊し、米軍は自陣を確保することに成功しています。ここで海兵隊に対峙した日本側の歩兵第38聯隊は初戦でその兵員の半数を失い、同夜、またしても(ってのはガダルカナルと同じく、って意味ね)夜襲を敢行しますが、これもまたガダルカナル同様、朝までに「全滅」して Agat 方面は完全に米軍の支配下となったのでした。
そして以後はそこから「掃討作戦」が開始され、7 月26日には日本軍はここまでに残っていたすべての戦力を結集して総反撃をもくろみましたが、米軍の重火器の前に肉弾戦に持ち込むことすら出来ず、第18聯隊が全滅。28日にはニミッツ・ヒル(日本軍では本田台と称していた)にあった第29師団の司令部がすでに揚陸されていた米軍の戦車数十台に包囲されて壊滅し師団長の高品中将も戦死しています。
翌29日には Agat の東北東約 8km ほどのテンホー山中に設営されていた第31軍の本営で小畑司令官は北部山中を拠点とした持久戦に入ることを決定しましたが、8 月11日には米軍がパリーヒルなどの丘陵地帯の掃討も開始したため、ついに小畑中将他の首脳が自決し、組織的な戦闘は終結しました(とは言っても、あの「恥ずかしながら」の横井さんのように山中に潜み 27 年も発見されずにいた、っちゅう例外はありますが、残った兵士で敗戦までゲリラとなって「治安を脅かす」存在となった例も多かったようです)。
この戦闘で死亡した日本軍兵士は、20,810 名と言われた守備隊のうち、実に 95%(!)にのぼったと言われています。

さて、この時期の各局地戦の記録をさらっていて気付くのは、日本側の「戦記物」と、アメリカの同じ話題を扱ったサイトでのその記述の姿勢の「差」です。
どちらも、なぜ勝敗が別れたのか、を採り上げてはいるのですが、アメリカ勢が「淡々と」勝って当たり前な背景を述べているのに対し、日本のものは、殆どがその「敗因」を司令部のミスや不運(「敵艦隊を発見できず・・・」、また「途中で入った新たな情報から、いったん取り付けた爆装をいそいで雷装に交換中に敵機の攻撃を受け・・・」などなど)に帰して、本当は勝てたかもしれないのに、という姿勢が目立ちます。
例のマリアナ沖海戦にしても、実際にはレーダーで 378km も前方で日本機の来襲を予知した米軍が全機発進させて高々度で待ち伏せして大半を撃墜し、残りも VT 信管の高射砲で次々と撃墜されていたのに、それをアウトレンジ作戦が裏目に出て、帰投できない機が大半であった。で片付けてる日本のサイトがあって、ちょっと考えさせられました。ああ、アンラッキーが重なって「負けた」と思っているうちは、真の「敗因」に辿り着くことは無いな、ってね。

まず、国力が圧倒的に違う、というところがどれだけ認識されていたのでしょうか?
また不意打ちで緒戦は先んじられても、そこからの復旧の底力を甘く見過ぎていない?
そして忘れてならないのは「知力」の「差」でしょう。
早い段階からすでに暗号は解読され、日本ではついにモノに出来なかったレーダーを実戦に投入され(さらに悪いのは、その実態、つまり、どんな性能で、どのように使えるものなのか?という正確な情報が日本側には無かった、ってこと)、その上、日本では思いもつかない VT 信管なんていう技術が実現され、日本ではそんな砲弾の「存在すら」知らなかった・・・これでは勝てるワケがおまへん。

それはさておき、このグアムがアメリカの手に落ちたことで戦局はさらに「傾き」、日本軍の退潮が顕著になっていきます。
サイパン、テニアン、グアムは以後、米軍の前線基地となり、ここから B29 による日本本土の空襲が頻繁に行われるようになり、1945 年 3 月10日には約 300 機による東京大空襲(続いて 3/13 には名古屋、3/14 に大阪、3/17 は神戸)。
22日には硫黄島守備隊が玉砕、さらに 1945 年の 4 月に始まった沖縄戦に投入された米軍大艦隊、約55万の兵力もこのグアムを 3 月に発進したものでした。
7 月に日本政府はヒソカにソ連に和平の斡旋を依頼しますがモチロン拒否され、8 月の原爆投下、和平斡旋どころかソ連の対日宣戦布告などと追い込まれたあげく、1945 年 8 月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告して降伏しました。

Back to USA

終戦によって除隊した Elmore James はまず Belzoni に戻ったらしく(とりあえず Memphis に向かった、という説も)、そこで Sonny Boy Williamson IIと同居して付近の Juke Joint などでの演奏を始めています。
またこの頃、いとこの "Homesick" James Williamson( John William Henderson つー説もありますが・・・)と、また資料によっては Eddie Taylor とも一緒に Memphis のクラブに出演したり、 Beale ストリートで演奏をしていた、とされていますが 1947 年にはまず Sonny Boy のバック・アップ・メンバーとして KFFA(最初、 Arkansas 州 Helena の the Interstate Grocery Building にありましたが後に the Floyd Truck Lines Building に移っています)の King Biscuit Time にも出演を開始し、やがて南に下った(あ、これ、ミシシッピー河の流れる方向で下流って意味ねん) Mississippi 州 Yazoo City の WAZF から放送されていた the Talaho Syrup Show、さらに逆に北に上ったこれも Arkansas 州 West Memphis(この地名でお判りのように Tennesse 州 Memphis の対岸の街です)の KWEM から放送されていた the Hadacol Show にも出演するようになって行きます。
資料によっては、この KFFA 時代の Elmore James は Robert Nighthawk に「取り憑かれ」ていた、としている資料もありますが、Elmore James の音を聴いてみても、ま、個人的な見解に過ぎませんが、あまりこの二人の間に共通性って感じられないような気がするんですが、それほど影響って感じられますかねえ?

ちょっと変な言い方かもしれませんが Elmore を Elmore たらしめている部分というのはやはり彼独自のものなんじゃないでしょか?
もちろん、ベーシックな部分でのギターについてはそりゃ Robert Johnson から Robert Nighthawk にいたるまで共通する部分は持っているでしょうが。

In Europe

第二次世界大戦が終結した 1945 年当時の他のブルースマンたちを思いつくままに挙げてくと、まず Eddie Taylor 、彼は Memphis でトラックの運転手をしながら仕事がオフのときには Beale ストリートや周辺のクラブなどで演奏していたようです。後の相棒となる Jimmy Reed は 1943 年に来た Chicago から海軍に入っており、終戦で退役するとすぐに Mississippi 州に一度戻った、とされてますねえ。そこで結婚して再度北上、と。
ところで Gatemouth は、ってえと、彼にギターとヴァイオリンを教えてくれた父が死んだのが 1945 年だったそうでございます。
Chuck Berry はその前年に起こした例の車泥棒事件で刑務所の中。
そして John Brim が Chicago に出て来た年でもあります。
また Jimmy Rogers は Arkansas 州 Helena で Houston Stackhouse と King Biscuit Time に出てたころでしょか。
ま、もちろん、マジで調べりゃまだまだありますが、ちとメンドーになってきたんでこれくらいにして、と。

おっと、ヨーロッパをほったらかしにしてましたねえ。
ま、いちおーカンタンにまとめとくと、1945 年にはソヴィエトが本格的な西進を始め、1 月17日にはワルシャワ入り、27日にはアウシュヴィッツなどの強制収容所での大量虐殺を「発見」しています(いまだに、これをフィクションだ、などと強弁する者たちがいるらしく、やはり自民族の犯した「過ち」を認めない「弱虫」は洋の東西を問わず存在するもののようです。それを認める勇気も無いよな腰抜けが「愛国者」ヅラをしてんだからヤになりますねえ)。
2 月にはヤルタ会談で(スターリン、チャーチル、ルーズヴェルト)ソヴィエトが日本に宣戦布告することを決定。
これ以降もソヴィエト軍の戦功が多いのですが、これはいわばナチス・ドイツの背中から攻めてるよなもんですから、ワリと容易だった、ってえことかもしれません。
米英軍は主にドイツの都市を爆撃することで、全ドイツの各システムを機能停止に追い込んでいます。ただ 4 月12日には病気が進行し、アメリカ大統領 Franklin Delano Roosevelt が死去、副大統領だった Harry S. Truman が後を継ぎました。
そして 4 月25日にはエルベ川で東西から米軍とソヴィエト軍が到達して合流しています。この時にはその後の「冷戦」なんて予想も出来なかったんでしょか?
4 月30日にはヒトラーの自殺死体を発見、とソヴィエト軍が発表し、もはや第三帝国は壊滅したのでした。実際の降伏調印は 5 月 7 日ですが、次の日が V-E Day( Victory in Europe )となっています。

Post War Blues

さらに日本も降伏して実質的に第二次世界大戦は終結し、8 月14日(日本では 8 月15日)が V-J Day( Victory over Japan Day )となりました。
さらに 9 月 8 日には朝鮮半島の南半分をアメリカ軍が、北半分をソヴィエト軍が占領しています。ま、これが「次の火種」になるのですが。
それはともかく、アメリカは戦勝気分に乗って、社会情勢は大きく動き始めます。戦時下の抑圧された経済活動が軛を解かれ、様々な動きが出てきますが、それは音楽業界でも例外ではありません。
ただし、戦前の大きな流れであった大人数によるダンス・ミュージックのための楽団、あるいはジャズ・オーケストラとも呼ばれたいわゆる Big Band は、その構成メンバーが出征したまま帰らなかったり、また演奏できる場も減ったりしたために一時の勢いは無く、そこに所属していたかってのメンバーたちはポジション(とウデ?)にもよりますが、小コンボに組み直したり、あるいは徐々にマーケットが拡大しつつある R&B 系のスタジオ・ミュージシャン、あるいはライヴでのバック・ミュージシャンとしての仕事に流れて行っています。

そして戦争によって多くの白人男性が徴兵されて行ったことにより発生した都市部での空隙を埋めるように南部諸州から流入してきた黒人たちによって、それまでマイルドで都会的なテイスト(?)でシカゴを代表していた Bluebird サウンドとはちょっと違う、猥雑なエネルギーに満ち、シンプルでストレート、かつもっと重心の低いブルースがマックスウェル・ストリートなどから広がり始め(あの名盤 Barrel House bh-04 Chicago Boogie なんてのが、そのあたりをよく反映しているように思います。戦後シカゴ・ブルースの先駆けとなった「最重要」アルバムですよん)、クラブの音から次第にレコードの世界にまでそれが浸透していって、1950 年代のシカゴ・ブルースとなっていく、っちゅーワケでしょね。

At Korea

Elmore James の初レコーディングは 1951 年の Sonny Boy Williamson IIの Eyesight to the Blind のバッキングらしいのですが、その直前の 1949 年には一時ピアニストの Willie Love のバンドにもいたとも言われています。
その Willie Love が Sonny Boy の紹介で吹込んだとされる Trumpet での録音を集めた Trumpet Masters, Vol.1: Lonesome World Blues( Collectable )は持っていないので、その録音時期、そこに Elmore がいたのかどうかは確認できておりません。

というところで、話はこのまま Elmore James 自身の初レコーディングへと進みそなもんですが、ちょっと待ってね。
ここでまたしても戦争が勃発いたします。
前述したように 1945 年 9 月 8 日、それまで日本が統治していた朝鮮半島は南部をアメリカが、北部をソヴィエトがそれぞれ「乗り込んで」軍政下に置き、それぞれ自主独立への道を歩き始めておりました。この「住み別け」自体はヤルタ会談での合意事項です。
しかし、その後、アメリカとソヴィエトはそのイデオロギーの問題も含めて徐々に対立が顕在化し、「冷戦」の時代へと入って行くワケで・・・
1946 年 2 月には、それまで抗日運動のリーダーであった金日成が朝鮮臨時人民委員会を設立し、事業の国有化など、共産主義を推進しますが、南部ではそれに反発して 1947 年の 6 月に李承晩が「南朝鮮過渡政府」をスタートさせます。また、半島の共産化に危機意識を抱いたアメリカは国連に朝鮮での調停を期待しましたが、それが動き出すのを待たずに 1948 年の 2 月には金日成が朝鮮人民軍を組織し、3 月には南部への送電を停止!
これに対抗するかのようにアメリカは 8 月13日、李承晩を首班とする大韓民国を建国させています。これがまた金日成を刺激して、北側はソヴィエトの援助のもと 9 月 9 日に朝鮮民主主義人民共和国を建国。

金日成は建国してすぐ、朝鮮半島からのアメリカ軍の掃討を計画していたようですが、この時点でのアメリカとの直接対決は望ましくない、と判断したヨシフ・スターリン(これも原語で書きたいとこやけど、あのロシアのキリル文字とかってのじゃ、ちゃんと表示すんのにコード使わなきゃいけないよーだからカタカナで)は12月に半島からソ連軍を引き揚げています。
ま、それに呼応したんでしょか、翌1949年 6 月にはアメリカ軍も軍政から、李承晩政権に委譲し、司令部を半島から撤収。
ま、これで、ひとつのピークは超えたように思われたのでしたが、この半島情勢にはもうひとつのファクターが関与してきます。

およそ 3 年以上にわたった中国の内戦も、アメリカがもはや援助しても無駄(?)と見切りをつけた蒋介石の国民党を、毛沢東率いる中国共産党が完全に圧倒し、これが中華人民共和国へとなるのですが、1950 年 3 月に金日成はモスクワを訪れ、直前( 1950 年 1 月12日)にアメリカ国務長官 Dean Acheson がナショナル・プレス・クラブで語った、「アメリカの防衛責任範囲」の中に朝鮮半島が含まれていなかった(ただし、実際には米韓軍事協定を結んでいたために含めなかったもののようです)ことから、朝鮮半島を統一する好機であり、開戦したい、という意向をスターリンに伝えたところ、毛沢東の「同意」を条件として許可が与えられた、と言われています。
そこで 5 月には金日成が中国を訪れ、同意とともに、支援も取り付けることに成功しました。

そして 1950 年 6 月25日、北朝鮮軍の兵力、約10万が 38 度線を越えて侵入を開始します。それを受けて 6 月27日、国連の安全保障委員会はソ連が「中華民国」と「中華人民共和国」の両中国の処遇をめぐる安全保障委員会の対応に抗議するために欠席したその空隙を衝いて「北朝鮮弾劾決議」を採択し、これを「錦の御旗」として米軍を主体とする国連軍が、兵力 25万を半島に投入することが決定されました。

しかし、緒戦は機先を制した北朝鮮軍が圧倒し続け、6 月28日にはソウルも占拠されてしまいます。
急ぎ日本国内に進駐していた米軍が半島に派兵されましたが、準備不足のために反攻どころかジリジリと追いつめられ、洛東江まで後退。ここでマッカーサーは戦陣の補強を行って保ちこたえさせ、9 月15日には仁川に国連軍を上陸させることに成功しました。これによって南部まで伸び切った北朝鮮軍は挟み撃ちにされたことで形勢が逆転し、28日には国連軍がソウルを奪還しています。
しかし、李承晩の軍部はこれまた金日成と同じ発想で、逆に北に進攻して半島を統一しよう、との野望から、国連軍の承認を取り付けて 38 度線以北に攻め込みました。もちろん韓国軍単独ではいずれ撃退されるのは当然で、この事態に中国は「国連軍も越境してくるようであれば我が国は朝鮮民主主義人民共和国支援のため、人民解放軍を投入する」と警告を発したのですが 10月 9 日には国連軍も 38 度線を越えて進撃したため、中国は彭徳懐を司令官とした抗美援朝義勇軍(ここでの「美」とは、アメリカをさす「美国」ね)20 万人を派遣。
10月20日、国連軍は平壌にまで達していましたが、徐々に中国軍によって戦況は悪化し、さらにソ連から供与された MiG-15 ジェット戦闘機が国連軍の旧式なプロペラ機を圧倒、12月 5 日には中朝軍が平壌を奪回、そのまま南下を続けてふたたびソウルを制圧し、1951 年 2 月には忠清道まで押して来ました。しかしこのあたりで人数で押して来た中朝軍もさすがに消耗が激しく、押し切るには至らず、3 月に入ると態勢は再逆転、国連軍はソウルを奪回し、38 度線付近で前線が動かなくなりました。
マッカーサーは中国東北部を爆撃(一説では原爆の使用も検討された、といいます)するプランを提示しましたが、その強硬姿勢が対ソ連政策として「危険」過ぎる、ということで Harry S. Truman 大統領はマッカーサーを解任してしまいます。
結局その境界線(実際の北緯 38 度とは厳密には違うそうですが、その名称がそのまま使われたようです)のまま 1953 月 7 月27日、板門店で休戦協定が結ばれて、およそ 400万の犠牲者が出たといわれる「朝鮮戦争」は終結しました。

ブルースの世界で、この戦争が与えた影響を窺える曲としては、2004 年 7月27日(つまり板門店での協定からちょうど 1/2世紀の日だったのよん)に採り上げた Jimmy Rogers の World's in a Tangle、さらに 2003 年 9月10日に採り上げた Percy Mayfield の Please Send Me Someone to Love が挙げられますが、おヒマでしたらそちらもどうぞ。

戦争体験と言えば、あの Screamin' Jay Hawkins もなんかぬかしておりましたねえ。

サイパンにパラシュートで降下したらちょうど日本軍のド真ん中だったんでスグ捕虜になり、18ヶ月も救出を待ったよ。
その間、日本軍の将校の拷問にあって、俺のカラダはチェス盤なみに線が走ってるぜ・・・

まあ、よくもぬけぬけと。ヤツは戦闘員じゃなく、音楽で慰問して歩く「スペシャル・サービス」に属してたハズですぜ。
ま、ホラまで「さすが Screamin' Jay Hawkins!」って感じですが。

At Israel

「朝鮮戦争」ってのは、拉致問題がクロース・アップされている最近、なにやらミョーに日本でも身近(?)な話題になっちまった北朝鮮と、一方では韓流ブームとやらで騒がれている韓国にまつわる出来事なだけに、おそらく知名度もそこそこある(?)かとは思うんですが、一方、我々日本人にはちと遠い世界つーか、ある意味、理解も出来てないんじゃないか?と思うのが中東問題、それもイスラエル建国とパレスチナ問題あたりでございます。

これにはイギリスの動きが大きく関わっているのですが、さすがにそこまで踏み込んじゃうと、この連載もどこまで行くか判らなくなっちゃうんで、ま、イギリスがどっちにも「いい顔」したために「約束の地」を獲得したシオニストと、その入植で排除されたパレスチナの民の根本的な反目が底流にある、てなあたりを「とりあえず」覚えといていただければ・・・
1947 年11月、パレスチナの地に、アラブ人国家とユダヤ人国家の双方を分割して建設する、という国連決議がなされ、イギリスは委任統治を終了。しかし、これは解決ではなく、現在にまで連続する一切の紛争のスタートでした。

その最初の波紋が 1948 年 5 月14日、イスラエルの建国宣言で、これに反発する周辺のアラブ諸国が、およそ 15 万の兵力でパレスチナに進攻。イスラエルはおよそ 3 万にも満たない兵力で、当初は後退させられましたが、休戦期間中に設備も練度も向上させて次第に反撃に転じ、優勢なまま 1949 年 6 月に国連の停戦勧告を受け容れました。この時点でイスラエル領土は攻撃前よりも拡大しており、このことがまたアラブ諸国の「怒り」を買っています。
そしてアスワン・ハイ・ダムの建設中止がアラブ諸国の反西欧社会姿勢を表面化させたのかもしれませんが、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を決定し、これが契機となった第二次中東戦争が 1956 年に起きているのですが、それはアタマの隅においといてもらって、ここは本題(か?)の Elmore James の年表にちょっと話を戻しましょ。

Broomdusters

時は 1951 年の 8 月 5 日、Mississippi 州 Jackson のクラブに Sonny Boy のバックとして出演していた Elmore James は、Lillian McMurry のレーベル Trumpet に吹込む Sonny Boy に付き合ったついで(?)に、あの Dust My Broom を録音しています。
バックには Sonny Boy Williamson IIのハープ、そして Leonard Ware( bass )と Frock O'dell( ds )。
ただし、これは2004 年 7 月25日に採り上げましたとおり、シングルの裏面が Bobo "Slim" Thomas の Catfish Blues となっており、一部の資料ではそれを、録音した Elmore がそのプレイバックを聴いてるうちにイヤになったのか帰ってしまって裏面の分が無かったからだ、なんて伝承もございますが、そこら真相は不明でございます。
しかもこの Bobo Thomas ってのがどんなヤツなのかさっぱわからんのですから、ミステリーでございますねえ。
でも、このカップリングで発売されたレコードは Dust My Broom がかなりのヒットとなり R&B チャートの 9 位に入る(一週だけでしたけどねん)出来となっています。
ところで、とある資料では Dust My Broom はリハーサルを録ったもので、最初それがリリースされたが翌年もういちど録り直したリメイク版の I Belive がヒットした、なんてあるんですが、これについては、どっからそんな話が出てきたのかまったく不明です。
確かに Trumpet での録音ではリハーサルもテスト録音した可能性はあるが、それは本番で上書きされて消滅している、としている資料もあります。
また当初の Trumpet 146 の後、Ace 508 としてリリースする際に、カッティングをし直し(これが当時のリマスターリング!)、タイトルも I Believe My Time Ain't Long と変えていますが、これをカン違いしてるんじゃないでしょか。
Elmore James と Trumpet との関わりはこれひとつで終り、それ以降は Bihari Brothers の Modern、Flair、Meteor へと録音の場は移ります。

翌1952 年 1 月には Mississippi州 Canton(ここで Elmore が異父弟の Robert Earl Holston が経営するラジオ・ショップで働いていた、とする資料もあります)での Joe Bihari によるレコーディング。ここではポータブル・テープ・レコーダーが使われ、Canton のナイトクラブ the Club Bizarre で録音された、と言われています。ピアノに Ike Turner 、ドラムは氏名不詳。
この時には Please Find My Baby、Hawaiian Boogie、Take a Little Walk with Me、Dust My Broom なども録音されたようですが、Please Find My Baby と Hawaiian Boogie の二曲は Kent LP-9001 などに収録されています。他はおそらくテープが散逸したか、これもまたテープに上書きされて消えた可能性があるようです。
この時の二曲のマスター・テープは後( 1953 年 5 月)に Los Angeles の Universal Recording Studios でベースとドラムをオーヴァーダブされて Meteor master #MR 5017 となったそうです。
同じく、これも氏名不詳のサックス・プレイヤーを加えて Lost Woman Blues( Please Find My Baby の Ver.2。ただしこれは Flair 1022 として一度は市場に出ているらしいのですが、Lillian McMurry から、いまだに Elmore James は Trumpet の契約下にある、という抗議を受けてすぐに回収されています。結局ちゃんとリリースされたのは 1954 年になってからのこととなります)、Lost Woman Blues( Please Find My Baby の Ver.3。こちらはやはりベースとドラムを後にオーヴァーダブされて Meteor master #MR 5016 となりましたが、それは結局リリースされず、オーヴァーダブされていないオリジナルの方が Flair 1022 として後にリリースされています)、Hand in Hand(これは Flair 1031 としてリリース。また Kent LP 9001 にも収録されています。)を録音。

続いて Ike Turner のピアノ以外は氏名不詳のサックス、ベース、ドラムをバックに Long Tall Woman Blues、Rock My Baby Right( take 1。ただしこのマスターは後に紛失されています)、Rock My Baby Right( take 2。これは Flair 1048 としてリリース。また Kent LP 9001 にも収録されています)、My Baby's Gone( Ace CH 68 )、One More Drink( take 1。Kent LP 9001 に収録)、One More Drink( take 2。Ace CH 68 )が録音されています。ここまでが 1952 年 1 月の Cantonでの録音。
それと、これは Elmore 本人が知っていたかどうか確認が出来ませんでしたが、ボイド・ギルモアってのが 1952 年に出したシングル、All in My Dreams( Modern 872 )には Elmore James のいずれかの Please Find My Baby のギターが「移植され」て使用されたそうです。
その All in My Dream っての、聴いたことが無いので未確認なんですが、ギター・ソロの部分を「切り貼り」しちゃったんでしょか?

同じ 1952年の11月には Chicago の Universal Studio で Joe Bihari によるレコーディング。
そしてここではすでに「あの」メンツが揃っております。
そ、もうお判りですね? J. T. Brown のサックス、Johnny Jones のピアノ、Ransom Knowling のベースに Odie Payne Jr. のドラムです。
一般にはこのメンバーを the Broomdusters としている例が多いようですが、その前の Canton 録音ですでに Broomdusters 名義が使われているとした資料もあり、そこらはちと「?」でございます。
というのも、Bihari Brothers は Elmore を録音したものの、例の Trumpet の絡みもあってすぐにはリリースせず、その間に CHESS でのシングルが出たことにより、慌てて CHESS に抗議して回収させ、そこでやっと録音が「日の目を見た」としている資料があり、もしそれが本当ならば、1952 年の Canton 録音に遡って「 the Broomdusters 」のクレジットを入れた可能性もあるからでございます。
てなことはさておき、この Chicago では Baby What's Wrong( Meteor 5003、Ace CH 112 としてリリース)、I Believe(これは 1953 年の 2 月に 9 位にまで上がり、以後 3 週間チャートにとどまりました。Meteor 5000、Kent 508、アルバムでは Kent LP 535、Kent LP 9001、Kent KST 538 などに収録)、Sinful Woman( Meteor 5003、Kent LP 9001、Kent KST 538 など)、I Held My Baby Last Night( Meteor 5000、Kent LP 9001、Kent KST 538 など)を録音しています。

面白いのはこの時に録音した歌無しナンバーがあって、それは Round House Boogie と Kickin' the Blues Around の二曲なんですが、これ、後に Elmore James and the Broomdusters じゃなく、Saxman Brown( J. T. Brown のことね) with the Broomdusters 名義で、曲名も Round House〜が Sax Symphonic Boogie( Meteor 5001 )となり、Kickin' the Blues〜は Flaming Blues( Meteor 5001・・・つまりシングルの裏表ですね。どっちゃが裏やら判らんけど)となってリリースされました。もちろんメンバーは Elmore もこみで上とまったく同じです。
そしてこれも Meteor 5016 としてリリースされた Sax-ony Boogie( Saxman Brown, Elmo James Broomdusters 名義)と、Dumb Woman Blues( J. T. "Big Boy" Brown, Elmo James Broomdusters 名義)の二曲も録音されているらしいのですが、この四曲はいまだ聴いたことがないので、どんなものかさっぱ判りまへん。

ま、ある意味、 J. T. Brown も「売れる」と判断されたんでしょか?

1952

さて、1952 年って言うと Chicago に出てきた Otis Spann がマディのバンドに入り、同じく Matt Murphy も Chicago に来て Memphis Slim のバンド入り、そして2004 年、青森市でのライヴをやった Willie Kent もこの年に Chicago に「現れた」とされてたんじゃなかったっけ?さらに、この年 Chicago に、ってのが Hound Dog Taylor の Houserockers でお馴染みの Brewer Phillips、それから Jesse Fortune もですね。あ、逆に Willie Cobbs はこの年から「州兵」の軍務につくため Chicago から「消えて」いますが。
そしてちょとちゃう方面(?)ですが、Lonnie Johnson はこの年に、イギリスに渡った最初のブルースマンとなってますねえ。

で、この年に生まれたレーベルもあります。
まずはこれまたみなさんお馴染みの Sam Phillips の Memphis Recording Service が、3 月21日のアメリカ初のロックンロールにまつわる「暴動」(例のペイオーラ事件で失脚する人気 DJ、Alan Freed の企画した Cleveland の Moondog Coronation Ball での「争乱」で、これがアメリカの保守層に「ロックンロール=悪」という刷り込みを補強したんじゃないでしょか)直後の 3 月27日にスタートさせた Sun Records。その年に Joe Hill Louis や Maxwell Street Jimmy Davis が Sun に吹き込み。
そして本稿でもお馴染みの Bihari Brothers の四人兄弟( Saul、Jules、Joe、そして Lester )のうち、社内では一番軽いポジションにいた末っ子の Lester が本拠である西海岸を離れ、Tennesse 州 Memphis で創立したのが Meteor で、先の Elmore のセッションもこの Lester のセッティングによるものだったようですが、しかし現場(のプロデュース)はすぐ上の兄 Joe が取り仕切ってるのねん。すぐにリリースされなかったのは、そこらの力関係もあったのかも?

そしてその Meteor と同じ Tennessee 州ながら、こちらは Nashville で Ernest Lafayette Young、つまり Ernie Young が二年前に設立した Nashboro Records の傘下に「あの」 Excello を発足させたのが 1952 年 8 月のことでした。
ついでに(?)目についたこの 1952 年のレコーディングってえと、Little Walter が Checker Records から Juke と Can't Hold out Much Longer を出してます。Wilbert Harrison は例の大ヒット、Kansas City( Fury 1023 )だし、Eddie Boyd は J.O.B.から、かの名曲 Five Long Years をリリース。これなんて、実に 7 週間にわたって R&B チャートの 1 位に居続けたものです。
また、これも名曲と言っていい Willie Mabon の I Don't Know が Parrot に録音されたのもこの年。
もっと地味(シツレイ)なとこじゃ Big Joe Williams が Trumpet に Mama Don't Allow Me などを吹込んでいますし Homesick James は Lonesome Ole Train を吹き込み・・・

この 1952 年は大リーグの Southwestern International League に「初めての」黒人アンパイアが登場しています。
またイギリス首相 Winston Churchill が英国の核爆弾保有を発表。
日本の占領統治が終わったのもこの年で、西ドイツはイスラエルに対し巨額の補償支払いを決定。
アメリカでは大統領選挙が行われ Dwight D. Eisenhower が当選しています(余談ながら、その選挙戦のため、落選した方の候補 Adlai Stevenson を擁する民主党は TV 放送枠を 30 分買い取って公約などを流したのですが、局には I Love Lucy が見られなかったじゃないか!という抗議が殺到し、まさかそのせいじゃあないでしょうが 20 秒の CM だけにした Eisenhower が勝っております)。

1953

てなところで Elmore James に話を戻しまして・・・
Chicago でのレコーディングは翌1953年の 1 月17日にも行われ、ここでもメンバーは J. T. Brown のサックス、Johnny Jones のピアノ、Ransom Knowling のベースに Odie Payne Jr. のドラムです。ただし、これは前段でもちょっと触れましたが、Bihari Brothers によるものではありません。
そ、これが問題の(?) CHESS 録音なのねん。これと 1960 年の 4 月にもういちど CHESS に吹込んだナンバー(その時のバックはもちろん Elmore 以外全とっかえでしたが)、さらにナゼか John Brim のナンバーと組み合わせてリリースされた Whose Muddy Shoes を構成する曲が録音されています。
まず Country Boogie というインスト。これは後に Tool Bag Boogie と改題されて Whose Muddy Shoes に収められています。
続いては My Best Friend、そして See My Baby(アルバムでは I See My Baby になってますが・・・)。
さらに She Just Won't Do Right(これが問題のシングル Checker 777 で、「いったん」発売されたものの、Bihari Brothers からの抗議で回収したヤツですねえ。カップリングは Country Boogie。これもアルバムでは曲名が Dust My Broom になってます)と Whose Muddy Shoes の 5曲を録音しました。
なんでまた Elmore が CHESS でリリースしたか、ってえとたぶん Bihari Brothers が録るだけは録ったけど、いっこうにリリースしてくれない、という事情があったのかもしれません。ま、ここらは、どのくらい不満に思ってたのか、本人にでも訊かなきゃ判りっこないんですけどね。

そんなことがあった後の 1953 年 4 月、ふたたび Joe Bihari のプロデュースにより、Chicago の Universal Studios でレコーディング・セッションが行われましたが、最初は Little Johnny Jones and the Chicago Hound Dogs(どひ〜!)の名義で(つーことは、もちろんここでの主役は Johnny Jones で、もちろんヴォーカルもとってます) Sweet Little Woman と I May Be Wrong の二曲を録りました。これは Flair 1010 および Ace CH 68 としてリリースされています。
メンバーはそのまま、主役が Elmore に替わり、Elmore James and his Broomdusters 名義(ただし、いつものメンバーに Boyd Atkins のテナーあるいはアルト・サックスが加わっています)で Early in the Morning( Flair 1011、Kent LP 9010 など)、Hawaiian Boogie-ver. 2( Flair 1011、Kent LP 9010 など)、Can't Stop Lovin'( Flair 1014、Kent LP 9010 など)、Make a Little Love( Flair 1014、Kent LP 9010 など・・・この「など」ってのは例えば Red Lightnin' なんてえ他のアルバムにも収録されてる、ってこと。ここでは判りやすいので省きましたが LP とあるのはアルバムね)

次も同じメンバーで 1953年 8月に同じスタジオで
My Best Friend( Make My Dreams Come True ): Kent LP 9010
Make My Dreams Come True-take 2: Kent LP 9010
Make My Dreams Come True-take 3: スタートを失敗
Make My Dreams Come True-take 4: Ace ABOXCD 4
Make My Dreams Come True-take 6: FL 162
Make My Dreams Come True-take 7: Flair 1031: Fire 1011: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 1: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 2: Ace CH 68: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 3: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 4: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 5: Kent LP 9010: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 6: Flair 1022: Ace LP CH 112: Ace ABOXCD 4
Dark and Dreary-take 1: Ace ABOXCD 4
Dark and Dreary-take 2: Ace CH 68: Ace ABOXCD 4
Dark and Dreary-take 4: Flair 1048: Crown LP 5168: Custom CS 1054: United US 716: United US 7716: Ace ABOXCD 4
をレコーディングしています。

続いては Joe Bihari がらみではなく、あの Atlantic の Jerry Wexler がプロデュースした Joe Turner のバックに Elmore James とピアノの Johnny Jones が参加しています。Chicago の Universal Studios で、他のパースネルはベースに Jimmy Richardson、ドラムに Red Saunders、これに Sonny Cohn のトランペット、Grady Jackson のテナー、Mack Easton のバリトン・サックスで 1953 年の10月 7 日に録音されたのが Oke-She-Make-She-Pop と TV Mama( Atlantic 1016 )。
そしてその直後の10月 9 日には Johnny Jones のためのセッションで、Chicago Blues Hoy Hoy ( Atlantic 1045?ただし後述の Blues Piano Chicago Plus 、ATLANTIC SD 7227 に収録されたのはそのシングルでリリースされたのとは「別な」ヴァージョンである、とする説もあります)、Wait Baby Up the Line Hoy Hoy とカップリングでリリース)の 4 曲をレコーディング。Chicago Blues Up the Line の 2 曲では Elmore はアコースティックを使用しています。
他のパースネルは Blues Piano Chicago Plus ATLANTIC SD 7227 のライナーによれば J.T. Brown は「当確」かもしれないけど、他は不明となっており、ヒョっとするとオリジナル the Broomdusters ではなく、上の Joe Turner のバックの流用かも?と思ったのですが、そこに J.T. Brown が登場してるとなると、案外ドラムは Odie Payne、ベースは Ransom Knowlingっちゅう可能性だって無いとは言えません。

さらにこれも 1953 年の Chicago で、Junior Wells のバッキングをしています。他のメンツはピアノの Henry Gray、ベースの David Miles、ドラムは Fred Below で、Hoodoo Man と Junior's Wail の二曲で、これは States 134 としてリリースされました。

1954

明けて 1954 年(何月か、またスタジオは不明)にはまた Joe Bihari のプロデュースで Quarter Past Nine を吹込んでいますが、この時のパースネルで判明しているのはピアノの Ike Turner とドラムの Odie Payne Jr. だけで、残りのサックス 2本、ベースは氏名不詳です。
さらに 1954 年の 3 月と 4 月に Chicago の Universal Studios では Raymond Hill のサックス(他にも氏名不詳のサックスが二人)、Johnny Jones のピアノ、Ike Turner のギター、Odie Payne Jr. のドラム(ベースも不明)で
Where Can My Baby Be-take 1: Ace ABOXCD 4
Where Can My Baby Be-take 8: Ace CH 68: Ace ABOXCD 4
Where Can My Baby Be-take 9: Kent LP 9001: Kent KST 538: United US 778 と 7778: Ace ABOXCD 4
Please Come Back to Me( Sho Nuff I Do ): Ace CH 68: Ace ABOXCD 4
Sho Nuff I Do(セッションの会話入り?): Ace ABOXCD 4
Sho Nuff I Do( alternate take ): Flair 1039: Ace ABOXCD 4
Sho Nuff I Do: Kent LP 5022: Kent LP 9010: Ace ABOXCD 4
1839 Blues: Flair 1039: Kent 508: Kent LP 9001: Kent KST 538: etc.
I Got a Strange Baby(断片のみ): Ace ABOXCD 4
Canton Mississippi Breakdown: Kent LP 9001: Kent KST 538: etc.
の各曲が録音されました。

Rosenberg Case

1953 年から 1954 年って言うと、その前の 1952 年より世界情勢でもそれほど大きな動きってのは無い感じがあるんですが、当然そんなのは表面的な「エポック」だけの視野であって、「なにもない」時代なんて存在するワケは無いのでございます。
むしろ表面に現れてこない様々な事象が、水面下で静かに発酵し、それが「事件」として表層に噴出してくるのよねー。

そのひとつが『ローゼンバーグ事件』( Rosenberg Case )と言えるかもしれません。
この事件は、アメリカの原子爆弾の製造技術をソ連に漏洩した、という嫌疑で、アメリカ陸軍のレーダーに関する技術開発部門の技術者、Julius Rosenberg とその妻 Ethel が逮捕されたものです。
この夫婦は二人ともユダヤ系アメリカ市民で、ともに、当時はまだ合法的であったアメリカの共産党の会合で出会い、結婚したのでした。
1950 年にイギリスで逮捕された亡命物理学者の取り調べで浮上してきた、とされる核機密漏洩の疑惑に基づき夫妻は逮捕されたのですが、当初からソ連の原爆実験( 1949 年 8 月29日、カザフ共和国のセミパラチンスクで実施)のショックから、スケープ・ゴートを探したのだ、という国際的な非難や、また国内でもその捜査実態などに疑問の声が挙り、ローマ法王ピオ 12 世やサルトルなどの文化人による助命嘆願( 1951 年に死刑判決が出されたため)なども大統領 Dwight D. Eisenhower によって 1953 年 2 月11日に「拒否」され、同年 6 月19日に処刑されてしまいます。
夫妻は逮捕直後から無実を主張して司法取引にすら応じることを拒否していますが、法廷では共産党関係の尋問に関して黙秘したために、それが陪審の心証を悪化させたのだ、という説もあります。
しかし彼らの運命にもっと密接に関わっていたのは、おそらく「朝鮮戦争」の重圧だったのではないでしょうか。
アメリカの「大半の」国民が、共産主義の脅威を感じていたこの時期に、まるで前もって用意されていた台本があったかのように事件が発覚し、容疑者が逮捕され、裁判も進行して死刑が宣告され、国内外からの一切の助命嘆願・再審要求を無視して処刑される。
そしてこの事件が起きたことによって例の「赤狩り」へと暴走するのですが、治安を守るとの名目で CIA にしても FBI にしてもその体制を「整備」する予算が増大された、という見方もあります(そのようなスパイの話題に「乗った」ものか、最初の「 007 シリーズ」カジノ・ロワイヤルが出版されたのもこの 1953 年)。
その意味では、実に有効な反共産主義キャンペーンとなったワケですね。
現在では、ローゼンバーグ事件そのものが、反共産主義キャンペーンを補強するために演出された「冤罪」だったのではないか?とする論調が大勢を占めているようです。

その 1953 年ですが、あの Eddie TaylorJimmy Reed が Chicago で再会したのもこの年、また J. B. Lenoir は Mojo Boogie を吹込んでいます。

さらにローゼンバーグ事件以外の社会を見ていくと、アイゼンハワーが助命嘆願を拒否したその日にソ連はイスラエルと断交、大使を引き揚げてるんですねえ。この二つの間に関連は無いとは思うんですが・・・その直後の 3 月 1 日にはソヴィエト連邦の最高指導者、ヨシフ・スターリンが倒れて半身不随の状態となり、そのまま 3 月 5 日には死亡してしまいます。

5 月 9 日にはフランスが王制カンボジアの独立を承認。
まだこの時点では、やがて来る悲劇は予想もされておりません。
7 月27日にはようやく朝鮮戦争が休戦となりましたが、アジアには新しい紛争の火種がすでに用意されていました。その一端を担う(?)のはフランスだったのですが、その前にアメリカの動きとして重要だったのはイランのパーレヴィ国王への「加担」でしょう。
これが後のイラン革命での反米行動の原因ともなっていったワケですから。
ソ連の新指導者にはニキータ・フルシチョフが選定。

翌1954年 1 月14日には Marilyn Monroe が Joe DiMaggio と結婚しています。
そして 3 月 1 日には太平洋のビキニ環礁で水爆実験が行われ、日本の第五福竜丸が放射性降下物で汚染される事件が発生しました。

At Vietnum

3 月23日のヴェトミンによるディエン・ビェン・フーの占拠により、上で予告(?)したアジアの新しい火種として Vietnum の独立闘争がいよいよ顕在化して来ます。
かって仏領インドシナであったヴェトナムは、大戦中は日本軍の占領によってフランスの手を離れていたワケですが、日本の降伏によってホー・チ・ミンのヴェトナム民主共和国暫定政府は 1945 年 9 月 2 日に独立宣言を発布しました。
植民地支配を継続させたかったフランスはヴェトナム側と協議の末、ヴェトナムの南部に「コーチシナ共和国」を成立させることに成功しました。やがて自主独立への気運が浸透して来るのを牽制するかのように 1946 年12月にはフランス軍が北部を攻撃、翌年にはフエとハノイにまで達し、ホー・チ・ミンの解放軍は散開してゲリラ戦に移行する・・・
という経緯があって、その後ゲリラ対フランス軍、という構図(この時点ではフランス側がやや優勢)になっていたのですが、その背後で中華人民共和国が成立したことにより、ソ連とともにホー・チ・ミンのヴェトナム民主共和国を正統な政権と認め、フランス軍との独立戦争のための武器援助を開始します。

そーなるとアメリカだって黙ってるワケにゃ行きませんから、フランスに軍事援助を、ってことになっちゃう。
援助を受けたフランス軍はディエン・ビェン・フーを占拠し要塞化して兵力 16,000 人ほどを駐留させていたのですが 1954 年 3 月23日からのヴェトナム軍の攻撃でフランス軍は敗退、ついには降伏し、ジュネーヴ協定が成立し、ようやくヴェトナム民主共和国の独立が承認されたのでございます。
しかし、例によって共産勢力の拡大を警戒したアメリカは南部のコーチシナ共和国を存続させることに成功しましたが、それが次世代の紛争、南北ヴェトナムの問題へと発展していくことになります。

かってのオスマン帝国が撤退した後のバルカン半島での混乱と同様なことが、日本軍の占領から敗退へと言う似たような図式の中で東南アジアでも起こったワケで、これをもって「日本が東南アジアの独立を助けたのだ」などと強弁する頑迷な国粋主義者がいまだに存在するようですが、忘れちゃいけません。日本はそこを独立さすために進出したんじゃなく、欧米の宗主国に替わって「搾取」したかっただけなんですから。
ちゃう結果が出たのを「それが狙いだった」なんて言いつのるのは「負け惜しみ」っつーもんでしょ。

それにしても、第一次世界大戦以降の地球は、いかなる口実であれ(それがどんなに「リッパそう」な理念であろうとも)、同じ「種」の中で大量の殺戮を繰り返す「人間」という生物をその地表に抱えることになってしまったんですね。

さて、本題の Elmore James でございますが、前段の最後のとこで 1954 年の録音に触れましたが、そこまでは Mississippi 州、あるいは Chicago での録音でしたが、今度は場所を Bihari Brothers の本拠地 Culver City( Los Angeles を東京 23 区とすると Culver City は三鷹市みたいな位置関係かな?)に変えて、アレンジャーでもあるテナー・サックスの Maxwell Davis、バリトン・サックスの Jewel Grant、トランペットの James Parr、ピアノ Willard McDaniel、ベースが Ralph Hamilton、ドラム Jesse Sailes というスタジオ・ミュージシャンを揃え、プロデュースはもちろん Joe Bihari で 1954 年の 8 月あるいは 9 月に行われた録音です。
FL 216 Sunny Land : Flair 1057: Kent 433: Kent 465: Crown LP 5168: United US 716: etc.(この曲だけは上記のパースネルのうち、管三本が参加していません)
FL 217 Standing at the Crossroads : Flair 1057: Kent 433: Crown LP 5168: United US 7716: etc.
FL 225 Late Hours at Midnight : Flair 1062: Kent LP 9010
FL 226 The Way You Treat Me ( Mean & Evil): Flair 1062: Crown LP 5168: etc.
FL 240 Happy Home : Flair 1069: Kent 331: Kent 394: Crown LP 5168: United US 716: Modern Oldies 15: etc.
FL 241 No Love in My Heart ( for You ) : Flair 1069: Crown LP 5168: United US 716: etc.
と、合計三枚のシングル盤となっているのですが、パースネルが Elmore 以外、全とっかえ状態であるにもかかわらず、ここでも the Broom Dusters という呼称が使用されています。

ありがちですけどねん。

Stratofortress

ところで、いつからか、は厳密に書かれておりませんが、
http://www.slidingdelta.com/bluesmen/elmorejames.html によると Elmore James の使用していたのは Kay のフラット・トップにサウンド・ホールと言う、いわゆるウェスタン系のギターにマグネチック・ピックアップを取り付けたもので、どうも自分で配線したものらしいですね。

Culver City での録音は 1954 年の 8 月、あるいは 9 月と言われておりますが、たぶんそのあたりに Boing B-52 Stratofortress(成層圏の要塞!)爆撃機が初飛行をしていたハズです。
これは B-47 をさらに巨大にして、積載能力、航続性能をアップさせたもので、この機の出現によって、「常時」 50 メガトン(広島に投下された原爆は 0.015、つまり 15キロトン= 1/3,333!)もの核弾頭を抱えたアメリカ戦略空軍機が「有事」の際にはほぼ二時間以内に「某」敵国の重要施設を破壊出来るように高度 15,000m ほどの空中でローテーションを組みながら待機する、という、まさに冷戦時の極端な「象徴」となり、ゆえに映画「博士の異常な愛情─または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」では、主役級(?)の扱いを受けることとなったのでございました。
また(これ以外にも可変後退角主翼をもった F-111A なども使用されてはいますが)「北爆」時に大量のナパーム弾や通常爆弾を降らせた(かっての日本にとっての B-29 に匹敵する)悪魔であり、なんと 50 年後の現在でも「現役(もちろん改良されつつ更新されてはおりますが)」で使用されています。

その直後の 10月18日には、みなさまにもお馴染みの名前と思われます Texas Instruments が世界初のトランジスター・ラジオを発表しました。
10月31日にはフランスの海外県であったアルジェリアで組織された FLN( Front de Liberation Nationale アルジェリア民族開放戦線)が独立を目指して武装闘争に入っています。

あ、あと日時とかは判りませんでしたが、アメリカのボーイ・スカウトが人種による分離を廃止したのもこの 1954 年だったハズ。

翌1955年は映画 Back to the Future で父母の青春時代としてブッ飛んできた先の時代でございます。
1 月14日には Alan Freed による最初の「ロックンロール」コンサートが New York で開かれました。
2 月23日には東南アジア条約機構(オーストラリア、フランス、イギリス、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、タイ、そしてアメリカの各国で形勢された、西の NATO: 北大西洋条約機構と同じく、共産主義勢力の拡大を阻止し、参加各国の多方面での協力を謳った、基本的には軍事協力のための機構)の準備会議がスタート。
その NATO には 5 月 9 日、西ドイツが加盟しています。

24 Heur Du Mans

この年のルマン 24 時間( 24 Heures du Mans )ではメルセデス・ベンツ 300SLR をドライヴする Pierre Levegh(ピエール・ルーヴェ)が、ピットインしようとする(当時としては制動力が強大だったディスク・ブレーキを装備していた) Mike Hawthorn の Jaguar D type に前を塞がれた一台の Austin-Healey(こちらはドラム・ブレーキだった)が D type への追突を避けようと左に回避したところに高速で突っ込み、その Austin-Healey を踏み台にして左斜め上にコースを飛び出し、コース設備に激突した 300SLR は分解炎上したまま観客で埋まったグランド・スタンドを直撃。運転していた Pierre Levegh はもとより、観客 81 人が死亡する、という大惨事が発生しました。レースはそのまま続行されましたが、終了前にメルセデス・ベンツはレースを放棄して撤退しています。
この件に関しては、
http://www.k3.dion.ne.jp/~micha/book_deathracelemans1955.htm などをご参照下さい。

7 月 9 日には Bill Haley & the Comets の Rock Arond the Clock がロックンロールとして初めてチャート 1 位に到達し、同じく 17日には California 州 Anaheim に Disneyland がオープン(!)しました。

Cosimo Matassa

カンジンの Elmore James ですが、8 月になると、今度は New Orleans の Cosimo Matassa の J&M スタジオで録音が行われました。
バック・ミュージシャンはここでの数々の録音に関わったピアノの Edward Frank、ベースの Frank Fields、ドラムの Earl Palmer が揃っています。プロデュースはもちろん Joe Bihari。
Dust My Blues -take 3: Flair 1074: Kent 331: Kent 394: Crown LP 5168: United US 716 & 718: etc.
Blues Before Sunrise : Flair 1079: Crown LP 5168: United US 716: etc.
I Was a Fool : Flair 1074: Crown LP 5168: United US 716: etc.
Goodbye ( Baby ) : Flair 1079: Kent 465: Crown LP 5168: United US 716: etc.
と 2 枚のシングルになっていますが、ここで気付くのは Dust My Broom じゃなく、Dust My Blues だってこと。この改題の責任者が誰なのかは不明ですが、ま、なんにしてもあまりヒョーバンは良くないですねえ。

Emmett Case

ところでこの 1955 年 8 月の28日には、ある事件が起きています。
Chicago から夏の間、Mississippi 州の州都 Jackson と Memphis の中間あたりにある街、Money(これ、地名です!)の大叔父 Moses Wright のもとに来ていた 14 才の少年 Emmett Louis "Bobo" Till が、同地で知り合った小作農の子供たちと一緒に、白人の Roy Bryant が妻の Carolyn Bryant とともに経営していた地元のマーケットに行った際に、注意を惹くために Carolyn に対して口笛を吹きました。これが 8 月24日のことでしたが、夫の Roy は異母(父?)兄弟の J. W. Milam とともに 8 月28日早朝の 2:30 頃、大叔父 Moses の自宅から Emmett を誘拐し、さんざん殴打した後に 45 口径のピストルで殺害した上で重しをつけて Tallahatchie 川に沈めてしまいました。
翌日には少年の失踪に関する嫌疑で Roy Bryant は拘束されたのですが、三日後の 8 月31日には遺体が発見されています。
Emmett の母は遺体を Chicago に持ち帰りましたが、葬儀業者からの、遺体を「見苦しくなく」整えましょうか?という申し出を断り、Emmett がどんな目に遭わされたのかをみんなに見てもらいたいのだ、と敢えて遺体の写真を新聞社のカメラマンに撮影してもらい、これがセンセーションを巻き起こしました。
この報道もあって、Emmett の遺体を直接見に来たのは 50,000 人にも達した、と言われています。
Emmett Louis "Bobo" Till は 1955 年 9 月 6 日、Illinois 州 Alsip の Burr Oak Cemetery に埋葬されました。

ところで Roy Bryant と J. W. Milam は、ってえと、決まってるじゃない。「全部白人で構成される陪審」はたった 67 分で戻り、嫌疑不十分で無罪放免を告げたのでした。
犯人の二人(後に雑誌のインタビューで告白した、と言われている)も、Emmett の母も死んでしまった 2004 年になってアメリカ司法省は NAACP の要請に応え、再調査を開始する、と発表しています。
時効はすでに成立しているものの、真相が「もしかすると」ようやく国家によっても認定されることになるかもしれません。

50年も経って、ねえ・・・

Farewell Bihari

Cosimo Matassa のスタジオで録音した 1955 年ですが、その 9 月14日には西ドイツの Konrad Adenauer がモスクワを訪れ、いまだにソヴィエト国内に残っていた第二次世界大戦時のドイツ人捕虜の処遇について協議をしています。これによって最後の捕虜が 10月 7 日、ソヴィエトから開放されました。

12月 1 日には、2004 年の Sly and the Family Stone で詳しく書いた Rosa Parks 事件が起きています。これに始まる一連の公民権運動の流れについては Sly の方を参照してください。

明けて 1956 年の 1 月 4 日、Chicago の Universal Studios で Elmore James のレコーディングが行われました。
Raymond Hill ともうひとり氏名不詳のサックス、Eddie Taylor のギター、Johnny Jones のピアノ、そして氏名不詳のベースと Odie Payne Jr. のドラムで、これもプロデュースは Joe Bihari。
So Mean to Me-take 2 : Ace CH 68
So Mean to Me-take 3 : Kent LP 9001: Kent KST 538: United US 777 & 778
So Mean to Me-take 4 : Ace CH 192
Wild about You Baby : 会話、中断
Wild about You : Modern 983: Ace CH 68
Wild about You( Baby) : Kent LP 5022: Kent LP 9001: Kent KST 538: Ace CH 31
Elmo's Shuffle-take 3 : Kent LP 9010
Elmo's Shuffle-take 4 : Ace CH 68
Elmo's Shuffle-take 5 : Ace ABOXCD 4
Long Tall Woman : Kent LP 9001: Kent KST 538: United US 778 & 7778: Ace CH 192
Long Tall Woman : Modern 983: Ace CH 68
を録音しています。
そしてこれが Bihari Brothers との最後の仕事となったのでした。

Suez Canal

さて、その直後の 1 月16日、エジプトのナセル( Gamal Abdal Nasser )大統領は「パレスチナの地を奪回する」と誓約。それからおよそ半年後の 7 月26日にスエズ運河を国有化しています。

Suez Canal: もともとはアフリカ大陸がシナイ半島を経てアジア、そしてヨーロッパへとつながる狭小なスエズ地峡は、北が地中海、南からは紅海が深く喰い込んで来ている独特の地形でしたが、 19 世紀の半ばに、その部分を掘削して両方の海をつなげる運河を作る計画が持ち上がりました。
フランスの肝いりで Compagnie universelle du canal maritime de Suez が設立され、その Ferdinand de Lesseps の指揮で工事が開始されました。
基本設計はオーストリアの技師 Alois Negrelli によるもので、途中 125,000 人とも言われる多大な犠牲者(多くはコレラによる病死だった、と言われていますが・・・)を出しながら 1859 年 4 月25日の着工から 10 年を費やし、最初の通船は 1867 年 2 月17日に、すべての工事が完成した記念式典は 1869 年の11月17日に行われています。
開通後、その運営はエジプト政府とフランスが行いましたが、その建設に必要であった莫大な債務に耐えきれなくなったエジプト政府は、その所有権をイギリスに譲渡してしまいます。
それによって「運河を守るため」という名目で運河の両岸にイギリス軍が駐留しました。
そこからイギリスによる「実質上の」スエズ運河支配が始まったのです。

ところで、エジプトでは近代化のためのエネルギー政策の必要上から、大規模なダム建設の必要性があったのですが、あてにしていたアメリカからの援助などが得られないことが判明し、そこで運河の通行料収入をそれにあてようと国有化したものでしたが、当然、欧米各国からは非難が集中し、エジプトの海外資産凍結、各方面でのエジプトへの援助の停止などの報復処置が取られ、さらに 10 月にはイスラエルがエジプトに進攻し、これが第二次中東戦争となりました。
さらにイギリスとフランスもエジプトを攻撃していますが(この三国間には秘密の協約があった、とも言われています)、その後、国連においてエジプトの運河所有が「正当である」とされ、同年11月には国連による停戦命令を受け入れ、イスラエル、イギリス、フランスは撤収し、第二次中東戦争、別名スエズ戦争(あるいはスエズ動乱)は終息しています。
ところで、結局アスワン・ハイ・ダムは、ってえとソ連の援助などで完成にこぎつけたようですね。

Imre Nagy

そのスエズ動乱のさなかの 10月23日、こんどは東ヨーロッパと言って良いハンガリーで、ソヴィエトの支配に対する市民の反乱が勃発。
まずブダペストで学生によるデモが発生し、これに周辺の労働者や市民が次々と参加し、およそ 100,000 人に達する規模となった、と言われています。
本来ならば、これを制圧するハズのハンガリー軍の兵士は逆に制帽に付いていたソヴィエトを表す星を引き千切り、群衆の中にそれを投じる者が続出しました。
群衆の要求は初期においてはさほど過激なものではなく、穏当なものでしたが、これにハンガリーの秘密警察 AVO が介入して群衆に向かって「発砲」し、数百人の死者を出したことでデモ隊も激昂し、警察車両を転覆させて放火するなど、暴力化の一途を辿り、さらには武器までが出回るようになり、事態は一層危険な様相を呈して来ます。
ハンガリー共産党はここで大衆の支持が厚い Imre Nagy を総理大臣に選任し、大衆を軟化させて休戦に持ち込む方策を取りました。
しかし、このことによって Imre Nagy を「裏切り者」呼ばわりする層も出現し、やむなく強硬派だった Erno Gero 党書記と元首相の Andras Hegedeus は駐留ソヴィエト軍に治安出動を要請することとなります。
ブダペストでは市民とソヴィエト軍の間で激しい戦闘が勃発していましたが、同じ国内でも地方では平穏な地区も多かったそうで、むしろ秘密警察が介入したことでブダペストだけが「燃え上がって」しまった、と言えるのかもしれません。
数千人とも言われる犠牲を出しながらも、幾度かの休戦を挟んで、「戦闘」そのものは沈静化しつつありましたが、ここで民衆は Imre Nagy に対し、ワルシャワ条約機構そのものからの「離脱」を要求します。これに対し、またもやソヴィエト軍がそれを阻止するために 11月 4 日から軍事介入を開始しました。
ハンガリーの労働者評議会が対ソ連軍の前面に立ち、激しく抵抗。やがて彼らは政府を介さずに直接ソヴィエト軍司令部と交渉を開始し、一部の政治犯の釈放には成功したものの、政治体制を改変させることは出来ず、結果として親ソヴィエトの Janos Kadar が新しい共産主義政府を作ることになるのですが、その政権下では Imre Nagy を始めとする多くの政治家、活動家が次々と処刑され、アメリカの中央情報局の推計を信じれば、その数はおよそ 1,200 人にものぼる、と。

この戦闘と、その後の混乱、あるいは粛正などから国外に逃亡・脱出した人々は、実に 25 万人に達した、と言われています。
(注;他の例と異なり、ハンガリーでは姓名の表記が日本と同じく、前が名字、後が名前となります)

このハンガリー動乱は 1989 年の東西ドイツを隔てていた壁の崩壊につながる「東欧開放の嚆矢」であるかのように見える部分もあるのですが、その実態の評価はいまだに定まってはいないようです。
アメリカではこれを、自由で民主的な社会への希求が惹き起こした、と(バカのひとつ覚えやね)捉えたがっていますが、ヨーロッパではむしろ民主的な「社会主義」への移行を目指していたのではないか?という評価がメインだし、ソヴィエトに言わせれば、(ハンガリー軍が民衆を制圧「しようとも」しなかったことから)軍事独裁政治を目指したファシストによるクーデターと封建的な社会に戻そうとした聖職者たちの野合であり「したがって悪は滅びた」と・・・
ま、ワタクシなんぞがエラそーに分析なぞ出来るもんでもありませんが、アタマに血が昇った AVO があそこで発砲なんぞしてなきゃ、だいぶ様相は違ってたんじゃないかなあ、なんて考えちゃうんですが、どんなもんでしょ?

MNA et FLN

ハンガリー動乱とスエズ動乱で終わった 1956 年でしたが、日本が国連に加盟を認められたのが同じこの年の 12月12日でした。

明けて 1957 年はフリスビーの誕生した年なんだそうで、そんな昔からあったの?とビックリでございます。それが 1 月13日、Wham-O Company ってとこの製品だそうで。
2 月 4 日にはフランスが、国連のアルジェリア問題への介入を阻んでいます。
3 月 8 日にはようやくスエズ運河再開。
3 月20日、フランスの新聞 L'Express がアルジェリア*でのフランス陸軍による虜囚の拷問を暴露しました。

*─めっちゃ長いけど、アラビア語の発音をカタカナ表記すると「アル=ジュムフーリーヤ・アル=ジャザーイリーヤ・アッ=ディームクラーティーヤ・アッ=シャ〜アビーヤ」ってのが国名だそうです。
1830 年、オスマン帝国下にあったアルジェリアは、その首都アルジェを占領され、1871 年には占領が全アルジェリアに拡大しました。
その後、長い間、フランスの海外県としてフランスの植民地の地位に甘んじていましたが、そこにはヨーロッパ系の入植者 Colon(本国からは搾取される立場だった、としている資料もありますが)と、ベルベル人やアラブ系などのイスラームの信仰を持つ民族が共存していました。
コロンは彼らと本国との間に入って収奪し、アルジェリアが産み出す「富」の大半を占有しながら徴税はその 30% を課せられていたに過ぎません。
そのようにして先住民との間に圧倒的な経済的格差を作ったこと、それに加えて、多くのムスリムにとっては自分たちの信じるイスラームに比べ、あくまでも前駆的な未完成な宗教(!)を信じている欧米人に指図されることに対する反発など、そして第二次世界大戦後の「民族自決」の流れなどの相乗効果で、宗主国フランスと、その手先(?)である Colon に対する反感が強まって結成されたのが、少し前でちょっと触れた FLN( Front de Liberation Nationale )アルジェリア民族解放戦線でした。そして目指すところは一緒でも、その活動方針ではかなりの開きがある( MNA: Mouvement national algérien )はフランス国内のアルジェリア出身者にはよく浸透しており、フランスでは MNA がやや FLN よりも優勢だったようです。

1954 年11月 1 日の朝、FLN ゲリラがアルジェリア国内の陸軍基地を始めとする各種の公共施設に対して攻撃を開始しました。
コロンはフランスからの入植者の財産を守るためと称してイスラームのコミュニティで強引な FLN 狩りを開始し、当然ながら、多くの独立論者もその犠牲となり、それがまた「反フランス」の勢いを強めて行くこととなりました。
FLN はカイロからの放送で、同胞に対して闘争に参加することを呼びかけ、それに対し時のフランス内務相 François Maurice Adrien Marie Mitterrand は軍事的に収拾すると発言。これは直前にインドシナでの手痛い「喪失」を味わったフランスにしてみれば、さらなる植民地の消滅は「なんとしてでも」阻止したい、と言う意向が強硬姿勢の背後にあったようです。
ただしフランス国内でも、文化人などをはじめとして、この独立闘争を支持する意見も多く、さらに国際世論の注視などの中にあってフランス政府は実際には派手な掃討作戦などが行えずにいたため、その「弱腰」に反発したアルジェリア駐留軍やコロンたちのフランス政府に対する(事態を収拾するためにフランスから送り込まれた知事の Jacques Soustelle に対し圧力をかけ、妨害も行った)反乱も発生し、収拾能力の限界を露呈したフランス第四共和制は崩壊してしまいます。
このアルジェリア解放に最後まで反対した植民地主義者や現地のフランス軍、さらにコロンたちで結成された OAS(秘密軍事組織)は後にテロなどの非合法活動に走り、それがフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」を生んだ、というのは有名なハナシ。

さて、アルジェリアはひとまず置いといて、この 1957 年というのは「核査察」で最近はみなさまの記憶にも比較的新しいのではないか、と思われる IAEA が 7 月29日に設立されております。

Cobblestone

というところで Elmore の録音を挟ませていただきますが、じつはそれが 1957 年のいつごろだったのか?は判らないのでございますよ。
仕方無いのでここらに入れときますが、「夏」だった、というショーコはどこにもございません。
ただ、月日以外のデータは残っておりまして、 J. T. Brown のサックス、Wayne Benett と Eddie Taylor のギター、Johnny Jones のピアノと Homesick James のベース・ギター(と表記されてますねえ)に氏名不詳のドラマーという構成で Mel London の Chief Records に録音しているのですが、資料によってはこのとき、Wayne Benett と Eddie Taylor 、それにベースパターンを弾いてた Homesick James までが「同じひとつのアンプに挿してた」なんて書いてるのがありましたが、どこまでホントか、は「?」でございます。
このセッションでは Tampa Red の 1949 年の名曲 When Things Go Wrong with You が採り上げられ、他にも Mel London の手になる The Twelve Year Old Boy も収録されました。
The Twelve Year Old Boy : Chief 7001: VeeJay 249: Cobblestone 9001: Muse MR 5087 etc.
Coming Home : Chief 7001: VeeJay 249: Cobblestone 9001: VeeJay VJS-2-1007 etc.
It Hurts Me Too : Chief 7004: VeeJay 259: Cobblestone 9001 etc.
Elmore's Contribution to Jazz : Chief 7004: VeeJay 259: Cobblestone 9001 etc.

この二枚のシングルに続き、もう一枚 Chief 7006となるシングルの二曲が録音されていますが、こちらは Homesick James の参加が確認されていないようで、ドラム・ベースともに氏名不詳となっています。
Cry for Me Baby : Chief 7006: VeeJay 269: Cobblestone 9001 etc.
Take Me Where You Go : Chief 7006: VeeJay 269: Cobblestone 9001 etc.

で、もひとつ、これはまた Homesick James がベース・ギターとなったトラックで
Knocking at Your Door : Chief 7020: Cobblestone 9001 etc.
も録音されました。え? Chief 7020って他に無いじゃん、裏は?ってえと、これがあなた、じつは Earl Hooker の Calling All Blues となって 1960 年にはちゃ〜んとリリースされておるのでございますよ。ま、ついで、と申してはナンでございますが、次の Chief 7021 こそ「あの」Earl Hooker が参加した Junior Wells の Messing with the Kid なのよねー。その 10 番あとの Chief 7031 が Earl Hooker の Rockin' with the Kidっちゅーカンケーね。

1957 年っていうと 9 月には Arkansas 州 Little Rock での人種差別事件、州知事による黒人生徒の登校阻止、いわゆる Little Rock Nine が発生しています。それも詳しくはリンク先の Sly and the Family Stone のとこを参照してくださいませ。
で、アメリカがそんなことしてる間に(?)ソ連が「人類初の」人工衛星スプートニク I を打ち上げて周回軌道に投入することに成功してしまうのが、ちょうどその一ヶ月後の 1957 年10月 4 日のことでした。おまけに 11月の 3 日にはライカと名付けられた犬を乗せたカプセル(生命維持装置によって「何日かは」生きていたハズ、だそうです!)を組み込んだスプートニク II も打ち上げに成功しています。
この件がアメリカの「威信」を実は深〜く傷つけてしまったもんですから、以後アメリカは宇宙開発に血道を上げることになるワケですね。

1958

1958 年ってえと、「東京通信工業」が社名を「 SONY 」としたのが、この年の 1 月 1 日なのね。
また、日本が国連の安全保障委員会の非常任理事国に就任してます。
そして EU の「遠い」先祖(?) E.C.C.=欧州経済共同市場もスタート。
1 月 5 日にはホー・チ・ミンがインドを訪問し(ついでながら 1 月 7 日にはインドネシアのスカルノもインドに来ています)、翌日にはソ連が兵力 30 万を削減する、と発表しました。
この時期のソ連は、やや緊張緩和方向へという戦略をとり始めており、ブルガーニンは「東西首脳会談」の開催を提案しています( 1 月 9 日。アメリカは 12日に条件付きながらも同意しています。さらに 1 月17日にはアメリカとソヴィエトの間で「文化交換協定」が調印されました。さらに推進した「文化交流協定」は 1 月27日)。

ソ連が「人類初の」人工衛星スプートニク I を打ち上げて周回軌道に投入することに成功したのが、前年の10月 4 日で、急いで後を追いたいアメリカでしたが、なんと「追う」どころか 11月の 3 日には犬を乗せたスプートニク II までも打ち上げられてちょっと差をつけられておりましたよね。
そのスプートニク I が軌道を外れて落っこちて来た 1958 年 1 月 4 日から 3 週間以上もあと、1 月 31 日になってようやくアメリカの人工衛星 Explorer I が打ち上げに成功したのでした。

その翌日にはエジプトとシリアが United Arab Republic ─アラブ連合共和国を結成しています。この連合は 1961 年にシリアでクーデターが発生したために解消されてしまいますが、この発想はその後のアラブ共和国連邦へ、と発展して行くことになります。

ところで 2 月11日には Ruth Carol Taylor という女性が黒人としては初めて航空会社のフライト・アテンダントとして採用されました。
続いて 2 月14日には、パーレヴィ国王による「王制」下にあったイランで、ロックンロールが禁止されています。イランの医学関係者によると、それに伴う踊りは骨盤にとって「危険である」と。
・・・おいおい、Elmore James はどーしちゃったんだ!というお叱りの声が聞こえてきそうですが、実はこの 1958 年には彼の録音は無く、いろんな資料に当たってみても、唯一その年に触れているのが、『せっかくの( 1957 年の)録音も、商業的には成功には結びつかなかったことが判明した 1958 年、彼はいったん南部に帰った』って記載だけのようで、ただ、これに関しては、それ以前からあまり調子の良くなかった心臓の具合を気遣って、彼は Mississippi 州 Jackson にいったん引っ込み、そこでタマに演奏したり、ラジオの修理の仕事をしたりしていた、としている資料もありますから、どっちみち、この年の彼は「お休みしてた」ってことになるのかもしれません。

さて 2 月14日にはイラクとヨルダンがアラブ連邦を結成しました。で、その日、中華人民共和国の代表団が平壌を訪問しています。
それに関連して 2 月19日にはアメリカが国連軍を朝鮮半島から撤退はさせない、と表明。
そのアメリカの喉元、キューバでは、フィデル・カストロの革命軍がバティスタ政権に対し、全面的な戦闘を開始しています。
3 月25日、西ドイツ連邦議会は、軍の核武装を決定しました。
3 月27日、ソ連の首相、ブルガーニンが辞任したことにより、フルシチョフ(共産党第一書記)が首相も兼任することになり、その直後の 3 月31日、ソ連は核実験を中止する、と発表。4 月22日にはアラブ連合のナセルがモスクワを訪問し、かと思うとユーゴスラヴィアのチトー大統領は逆にソ連との距離を強調するステートメントを党大会で発表しました。

一方アルジェリア情勢は、ってえと 4 月29日にモロッコで地中海沿岸諸国からアルジェリア、チュニジア、モロッコの独立推進派の政党関係者、政治家が集まり、独立のための共同行動を確認しています。
フランス本国では 5 月16日、アルジェリアに「緊急事態宣言」を発令しました。そして首相にド・ゴールを選任し、彼はさっそく現地入りしています。
一方のチュニジアでは 6 月17日、フランス軍の撤退協定が成立してるんですが、やはりアルジェリアはコロンと現地軍が政府に反抗しているために、そのような解決策は難しかったのでしょうね。

そしてこの後、こんどは中東に政変があり、事態が動き始めます。
1958 年 7 月14日、ファイサル国王が殺害され、イラク革命が成立しました。これに呼応する各地の「反欧米的」暴動などに「備える」としてレバノンの首都ベイルートに 5,000 人のアメリカ海兵隊員が送り込まれ、その二日後にはイギリスもレバノンに派兵しています。
これには 8 月 3 日、フルシチョフと、その訪問先、中国の周恩来の共同声明が発せられ、アメリカのレバノン派兵を非難しました。
その海兵隊が撤退したのは 8 月13日のことです。

ところがその中国は、ってえと 8 月23日に金門島などを人民解放軍が砲撃する、といういわゆる「金門島事件」を起こしているんですねえ。
ま、本気で攻略する、っつーより、反応を見て敵の防護能力を験そう、ってえもんだったんでしょが。
これを受けて(?)アメリカは台湾防衛のために軍を出動させるぞ!と中国に警告し、9 月15日には両国がワルシャワで会談しています。なんだかなあ・・・

どうもこのころの世界は、アメリカ&ソ連を両極とした「東西冷戦」が主要タームで、その陰で目立たない「西欧キリスト教社会 vs. ムスリム」という「次の」テンションが次第に張りつめられて行ってた、と言うことが出来るかもしれません。

9 月28日のフランス国民投票では、大統領権限を強化した第五共和国憲法が承認されました。これによって同年末に選任されたのがド・ゴールなのです。
また 10月23日にはアメリカの国務長官ダレス( Allen Dulles )と蒋介石が共同声明で中国本土への武力反攻を否定し 10月26日には北朝鮮にいた中国軍が撤退を完了しました。
他の「東西対立」関係事項としては、11月10日、フルシチョフ共産党書記長がベルリンを非武装自由都市とすることを決定。これはその名称とは違って、ベルリンからアメリカ、イギリス、フランスの西側の駐留軍隊を撤去させて「自由都市」とする、というものでしたが、実際にはそれによってベルリンを孤立化させる(なんせベルリンは第二次世界大戦でのドイツ敗戦によって東西に分割されたドイツの東側統治部分に孤立しており、ソ連側にしてみれば体内の異物みたいなもんでしたから、そこに西側の駐留軍がいるのは「イヤ」だったわけでしょねえ・・・なんて、そんな単純なことじゃないんでしょが)ことを狙ったものでした。
そして、例のアスワン・ハイ・ダムの建設援助協定がソ連とエジプトの間で調印されたのもこの 1958 年12月27日でした。

Elmore James の次の録音は翌1959年の11月まで待たねばなりませんが、明けて 1959 年はキューバのバティスタ政権がついに Fidel Castro の革命軍に追い詰められ、Fulgencio Batista はハバナに脱出しています。
1 月13日にはド・ゴール大統領がアルジェリア独立闘争での政治犯に恩赦を与え、これがコロンや植民地主義者たちをしてド・ゴール排除のテロに向かわせたのかもしれません。結局ド・ゴールは 9 月16日に民族自決を基本とした新政策を発表。
2 月にはソ連がイラクに対し経済および技術の開発協力を決定しました。またキューバではカストロが革命政府を樹立しています。
でも 2 月で一番アメリカを騒がせたのは 3 日に報道された飛行機事故だったでしょうね。
前日に墜落した飛行機に Buddy Holly、Richie Valens が乗っていて、死亡していたことが判明し、ファンたちに大きなショックを与えました。「 The Day the Music Died 」と言われたくらいです。

この 1959 年には、少し前、大虐殺が問題となったルワンダでツチ族の穏健派をメインとしてルワンダ民主連合が結成され( 9 月14日)続いてフツ人民解放党が結成( 10月 9 日)されたのもこの年のことでした。

Bobby Robinson

1959 年の11月には、よーやく Elmore James の次のレコーディングが始まりました。

さて、それからはるかに遡る 1917 年 4 月16日に、South Carolina 州の州都 Columbia から北西に約100km ほどの位置にある Union(地名です)で一人の男が生まれています。
Elmore James on Fire / Enjoy ( P-Vine PCD 2889/90/91 )の日本語に翻訳されたライナーで見る本人の言葉を信じるとすれば、南部での生活の経験もあるようですが、1930 年代の終り近くに New York に出て来たその男は、1946 年、あの有名な Apollo Theatre から僅か 1 ブロックの 301 West 125th Street に Bobby's Happy House Records というレコード店をオープンしました。
そこにはあの Atlantic の Ahmet Ertegen と Herb Abramson がしばしば訪れ、彼らの製品を持ち込んではレコード店主としての意見も訊きにきた、と言われております。
それが Bobby Robinson でした。

彼はレコードを販売するだけではなく、やがて自ら製作する(資料によっては、彼が Mel London の Chief Records のやり方に飽き足らず、自分のレーベルを、としているものがありましたので、もしかすると、一時 Chief に関わったことがあったのでしょうか?残念ながら、他の資料では裏付けがとれていませんので、そのようなハナシも存在する、とだけお伝えしときましょ)ことを目指すようになり、1950 年(あるいは 1951 年)には Robin というレーベルを作りましたが、1952年には Red Robin と改名しています。このレーベルは兄弟の Danny Robinson と共同で始めたもので、追って Whirlin' Disc Records を 1956 年(単独で)、Holiday Records( Danny 単独)に、また Fury Records も 1957 年(これも単独)、さらに Everlast records は同じ 1957 年ですが共同で、続く Fire Records が 1959 年(単独)、Enjoy Records を 1962 年(共同)に設立し、かなり膨大なカタログを持つようになっています。

ただ、本来 Fire は音楽出版に始まり、後には Fury などで録音したトラックを販売するための別レーベルとなった、としている資料もありますが、そのヘンは確認出来ませんでした。
Red Robin は Morris Lane、Charlie Singleton あたりに始まり、Jack Dupree、Sonny Terry、Brownie McGhee、そして「あの」 Tiny Grimes( 1954 )なんてのも・・・残念ながら(?)我らが Screamin' Jay Hawkins センセはすでにこの時期の Tiny Grimes のとこにはもうおられませんのですじゃ。
この Red Robin は次の Whirlin' ともども、全体としては明らかにヴォーカル・グループをそのカタログのメインにしており、たとえば The Trasher Wonders、The Du Droppers、The Vocaleers、The Velvets なんてそれらしい名前でイッパイです。
Whirlin' Disc Records は The Channels、The Continentals、The Quadrells なんてグループが吹込んでますが、これらがどんなグループなのか?なんてことは訊かないでねん。
Holiday Records は The Bop-Chords、The Harmonaires なんてのが録音してますが、これもどんなのか、さっぱ判りません。

とは言っても Fury のカタログを見ても The Kodaks、The Federals、The Miracles、The Emotions なんて言う、たぶんヴォーカル・グループじゃ?ってのがどっちゃりあるんですけどねえ。
ま、あまり厳密には別けてなかったんでしょか。
そして Fury となると The Teenchords に始まって Hal Paige や Tarheel SlimWilbert Harrison、そして「あの」 Fury 1035、Sammy Myers の You Don't Have to Go( 1960 )なんてのもあります。
後には Lee Dorsey なんてのもカタログに加わりますが、ここでの最大のヒットは Wilbert Harrison の Kansas City (1959 -two million!)でしょか。ま、Gladys Knight & the Pips なんてのもありますが。
その Kansas City については Wilbert Harrison が Savoy との契約を残していたため、裁判沙汰となってエラい目にあったりもしております。

Everlast では The Charts、The Kings & the Queens、Les Cooper なんて名が挙っていますが、ワタクシとしちゃあ Wild Jimmy Spruill が目玉ですねえ。
ま、上で挙げた他にも Danny Robinson のレーベルで The Rodans、Charles Walker、Bobby Brant などを持つ Vest Records、Jerry Dorn や Artie Lewis、Jesse Powell、Bob Myers などをリリースした Fling Records ( by Bobby )、King Curtis の Soul Twist ( 1962:後に Everlast 5030 )や Janet Calloway、Titus Turner、Riff Ruffin、Willie Hightower、そして後には Elmore James もリリースした Enjoy などという一大グループとなっているワケです。

さて Elmore James は Bobby Robinson にとって(前述のライナーによれば)待望のアーティストだったらしく、その始まりはレコード店時代に Trumpet での Dust My Broom を聴いたことに始まるようで、心臓の発作でミシシッピーに帰って「静養」していた Elmore James がこの 1959 年11月も末近く、シカゴのクラブに戻って来ていたのを「発見」した Bobby Robinson はさっそくレコーディングをセットしました。
となれば、レコーディング・メンバーは当然、黄金の(?) Broomdusters でなくちゃいけません。
つまり、J. T. Brown のサックス、Johnny Jones のピアノ、ドラムは Odie Payne Jr. ですが、ベースは Ransom Knowling のかわりに Homesick James でございます。
The Sky is Crying : Fire 1016
Bobby's Rock : Fire 1011
Held My Baby Last Night : Fire 1016
Dust My Broom : Capricorn 9 42006-2: P-Vine PCD 2889/90/91
Baby Please Set a Date : Capricorn 9 42006-2: P-Vine PCD 2889/90/91

この録音の中から The Sky is Crying が 1960 年 5 月に R&B チャートの 15 位にまで上る、というヒットを記録しています。
そしてご存知のよーに、この曲は実に多くのカヴァーが!
思いつくままに並べてみても Luther AllisonEarl HookerAlbert KingFreddie KingLightnin' SlimMagic SlimPinetop Perkins なんてとこでしょか?
白人のロック系まで広げると S.R.V. やジョニー・ウィンター、ゲイリー・ムーアなんてとこが知られてるよーですが、ワタシとしちゃあドンブリグッド・・・うっぷす、George Thorogood がいっちゃん良かったなあ。
ま、たびたび水をさしてますが、ワタクシ個人としちゃあ実は The Sun is Shinning のほーが好きなのねん。

さて Elmore James の録音が 1959 年11月末といいますが、翌12月の 1 日にはアメリカのワシントンで、南極大陸の一切の軍事目的使用を禁止する「南極条約」が調印されています。また、この日にはエジプトとイギリスが「断交」を解き、国交を快復してるんですねえ。
At China の段で採り上げた清朝最後の皇帝、第 12 代の「宣統帝」であり、後に関東軍に担ぎ出され満州国皇帝、「康徳帝」となった愛新覚羅溥儀が中華人民共和国最高人民法廷によって特赦を与えられ、放免されたのが 12月 4 日でした。およそ 15 年の囚われの身となっていたものです。
また 12月14日には、後に問題となる北朝鮮への「帰国プロジェクト」の第一弾として、新潟港から帰還船が出航しました。
で、この年は日本レコード大賞の第一回だったんですが、水原弘の「黒い花びら」が選ばれています。ホントにずいぶん「暗い」歌でしたよねえ。

年が明けると、アスワン・ハイ・ダムの建設が始まり、アメリカ放送業界は例のペイオーラ事件で大騒ぎになるのでございますが、それはまた次の段で。

De Gaulle

1960 年 1 月 1 日、フランスでは 1/100 のデノミネーションが実施されました。
1 月 9 日にはアスワン・ハイ・ダムの起工式です。このダム工事はアメリカに見限られて一時スエズ動乱の原因になったりもしていましたが、ソ連の援助によって着工にこぎつけたものです。
ソ連は膨大な維持コストを消費する軍事偏重から、エジプトばかりか、中東の諸国にも触手を伸ばして、世界戦略を経済や技術方面の援助によって有利に展開しようと転換しつつあったのでしょうか、その直後の 1 月14日には兵士 120 万人(!)の削減も発表しました。
同時に内務省を解散し、連邦内の各共和国内務省に権限を分割委譲しています。

一方、アルジェリアでは、ド・ゴール( Charles de Gaulle )によって、アルジェリア人を大量(一説では 200万人とも言われています。平野部の集落の全住民を、なにも無い山間部のキャンプに移動させたり、あるいは不毛の原野のキャンプに移動させ、無人となった集落の方は、ゲリラ対策と称して破壊し尽くした)に強制収容所に送り込むなど、強圧的な手法で独立闘争を弾圧し続けてきた現地軍司令官 Jacques Massu が罷免されています( 1 月22日)。
現地軍とコロンはこれに反発して翌日、バリケード反乱と呼ばれた抗議行動を起こしました。それに触発され、現地のフランス人入植者の中の右派も暴動を起こしています( 1 月24日)。
この争乱が鎮圧されたのは 1 月30日でしたが、2 月 3 日にはフランスの議会がド・ゴールに対し、アルジェリア問題の解決に関する特別な権限(これは 1958 年 6 月に与えられた Carte blanche =白紙、つまりすべてド・ゴールが「書き込む」ことが出来る全権委任を意味します─を再確認し、現在、大統領となった彼の方法論を議会が全面的に信任することを意味します)を与えることを決定しました。
もはやこの時点で、「世界の眼」を意識して動き出した本国と、現地で「既得権の死守」に拘泥していた一派の間には完全な断絶が生じていた訳です。

ところでアメリカの音楽シーンでは前年の 11月から騒ぎとなっていたペイオーラ( D.J.に対してレコード会社が金銭で特定のレコードをヘヴィ・ロールにしてもらう、一種の買収行為)スキャンダルの真っ最中でございました。
しかし 3 月 6 日、アメリカ政府は 3,500 人の軍関係者をヴェトナムに派遣する、と発表し、これがあのヴェトナム戦争への序曲となって行くのですが・・・

Hucklebuck

正確な日付は判らないのですが、たぶんこの年の早い時期に、こんどは New York の(あ、いつも単に New York と書いてますが、州名ではなく、New York City のことです) Beltone Studios でレコーディングを行っています。しかし Bobby Robinson は今回そのバックには Broomdusters ではなく、主に New York 系(?)のミュージシャンを起用しています。
これが前回の録音の出来から、むしろ New York テイストを入れた方が良い、と判断してのことか、あるいは単にスケジュール的なものによるものなのかはちょっと判りませんでした。
ベースの Homesick James を除けば全とっかえ状態で、氏名不詳のピアノだけはどうか判りませんが、たぶん初顔合わせ(?)じゃないでしょか。ギターの Wild Jimmy Spruill、ドラムの Belton Evans、そして一部か全部か、一部とすればどの曲でか、は判りませんがサックスには Paul "Hucklebuck" Williams* が参加していた、と言われています。

*─ Paul "Hucklebuck" Williams: 1915 年 7 月13日、Tennesse 州 Lewisburg 生まれ。彼が 13 才の時に一家は New York に移り、ハイ・スクールのジャズ・バンドでサックスを吹くようになります。
さらに地元のバンドでも演奏をするようになった彼を Detroit のレコード店のオーナーでかつレーベルのオーナーでもあった Joe Von Battle( JVB Records となる)に見出され、そのレーベル New Jersey レーベルに初吹き込みしています。
その時の曲は 35-30(前述の JVB の本社の住所の「番地」だそうです)で、そこそこヒット。
その「なんかにちなんで」路線は D.J.シリーズに発展(?)し、Wild Bill Moore と一緒に Leroy White のために吹込んだ Swinging for Leroy、さらに Washington D.C.の D.J、Max Silverman には Waxie Maxie、Chicago の Al Benson には Benson's Bounce、St. Louis の Jesse "Spider" Burks には Spider Sent Me・・・
1948 年に Lucky Millinder とやってた時に Savoy に吹込んだナンバー Hucklebuck は 1949 年の 2 月からチャートに登場し、連続 32 週 R&B チャートにとどまり、最高位はモチロン 1 位で、それも 14 週間連続、という大ヒットとなり、以来 Paul Williams はそのミドル・ネームに "Hucklebuck" がつくようになったのでした。
その後 Atlantic のスタジオ・ハウス・バンドの一員として Ruth Brown の Hello Little Boy や、この Elmore James のセッションなどに参加し、後には James Brown のバックのディレクターの仕事もしています。
2002 年 9 月 4 日 New York で死去。

この New York での録音は
Rollin' and Tumblin' : Fire 1024: P-Vine PCD 2889/90/91
I'm Worried : Fire 1024: PCD 2889/90/91
( I ) Done Somebody Wrong : Fire1031: PCD 2889/90/91
Fine Little Mama : Fire 1031 & 5001: PCD 2889/90/91
Something inside of Me : Fire 5001( 1976 ): PCD 2889/90/91
そして I Can't Stop Loving You : Early One Morning : I Need You : Strange Angel : She Done Moved : My Baby's Gone (これについては 1962 年の録音、という説もあります。DJM DJD 28008 )の各曲については Capricorn 9 42006-2 と P-Vine PCD 2889/90/91 に収録されています。

Whose Muddy Shoes

続いては 4 月に、こんどは Leonard & Phil Chess のプロデュースでレコーディング・セッションが Chicago で行われました。
このときのパースネルについては資料によって相違があり、P-Vine PCD 2889/90/91 のライナーでは J. T. Brown のサックス、Johnny Jones のピアノ、Homesick James がベースで、Henry "Sneaky Joe" Harris のドラムと明記されているのですが、一部のサイトでは Eddie TaylorHomesick James の名を挙げて、他は unknown としているものもありました。
ま、それはともかく、ここでの録音は、あの 1953 年の「抜け駆け」録音と一緒に(そして John Brim のトラックと合わせて)アルバム Whose Muddy Shoes; CHESS LP-1537 となったものです。
I Can't Hold Out ( Talk to Me Baby ) : CHESS 1756: CHESS LP-1537
The Sun Is Shining : CHESS 1756: CHESS LP-1537
The Sun Is Shining( Alt. take ) : MCA MVCM-22029(? PCD 2889/90/91 のライナーでこのような記載があります。しかし MCA に関しては CH-9114が CHESS LP-1537の再発盤だと思うのですが、この MVCM-22029 ってのは発見できなかったため、本当にこの別テイクが収録されているのかどうか確認できておりません。日本盤でしょか?)
The Sun Is Shining( Alt. take ) : Argo LP 4034
Call It Stormy Monday ( Stormy Monday Blues ) : CHESS LP-1537
Madison Blues : CHESS LP-1537

ところで Talk to Me Baby と言うのはアルバム Whose Muddy Shoes に収録した際のタイトルで、シングル CHESS 1756 としてリリースされた時点では I Can't Hold Out として The Sun Is Shining とカップリングで発売( 5 月に)されています。
ま、個人的なことでもーしわけないけど、この Talk to Me Baby がワタクシにとっての the Best Tune of Elmore James なのでございますよ。
そして Elmore のこの時のテイクが同じようにワタクシの the Best of "Stormy Monday"ってワケ。

ところで、いまだに Icecream Man を Elmore James の曲、なんて言ってる「どアホ」なサイトが初心者向けのブルース・ガイドみたいなツラしてるっての、あれ、どーにかならんのでしょうかね?
他のブルースに関する解説(?)も「噴飯もの」で、ホント、いったいどこのどいつがあれ書いての?

Troublesphere

4 月に CHESS のセッションを行った Elmore James でしたが、その 4 月 1 日には国連の安全保障理事会が、南アフリカ共和国に対して人種差別廃止要求決議案を採択しています。

同地では、およそ 17 世紀にまで遡る植民地支配の歴史の中で、あからさまに西欧からの入植者を現地のアフリカ人およびインド系住民の「上位」に置き、徹底的に差別することが行われて来ていました。
1913 年にはそれを成文化した「原住民土地法」でアパルトヘイト( Apartheid: 南アフリカ特有のアフリカーンス言語で「分離」を意味する)という概念を導入し、「他民族間にある相違を尊重して、それぞれが独自に発展するべきであり、同じスタンダードをあてはめることは出来ない」という一見もっともらしい「お題目」のもと、白人は黒人を安価な労働力として確保し続けられるようにした実に不公平なものでした。

もちろん、第二次世界大戦後の民族自決ブーム(?)のなか、アフリカ大陸内のかってのヨーロッパ諸国による植民地が、次第に独立を果たしていく状況( 1960 年 1 月 1 日フランスからカメルーン、後には同じくマダガスカルやマリ、イギリスからソマリランド、ベルギーからコンゴ・・・)は、南アフリカで搾取され続けていた黒人たちにも刺激を与え、デモを行って権利の拡張を訴える行動が激化して行きます。そんな中、3 月21日の Sharpeville では丸腰の黒人たちに対して警察が発砲し、デモ隊から 69 人の死者と 180 人もの負傷者を出しました。
これが原因となって各地が争乱状態となり、政府は 3 月30日に「非常事態宣言」を発令しています。
国連の決議はそれを受けてのものでした。

また 4 月10日にはアメリカ議会に黒人の選挙権を拡大する市民権法案が提出されています。この選挙権に関する法案が成立した後も、白人優位主義者たちの、黒人たちが選挙人名簿に登録に行くこと自体を妨害しようとする行動が頻発し、さらに悪いことに地区によっては警察がそれに介入することを「見送った」ケースも多く、せっかくの立法も実効を伴うようになるにはかなりの時間を必要としたのでした。
一方でこの 4 月には韓国の李承晩大統領の退陣を要求する学生デモが起きています。4 月19日にはそのデモが暴動に発展し、警察はその鎮圧のために実弾による射撃を準備し「戒厳令」を発布。4 月25日には大学の教授など各界の知識人、財界などからも李承晩大統領に対する退陣要求が出始めて、27日、ついに辞任に追い込まれました。
李承晩は後にハワイに亡命しています。

5 月11日、アルゼンチンから、亡命して来ていた旧ナチの戦犯、アドルフ・アイヒマン( Adolf Otto Eichmann )がイスラエルの諜報機関モサド 4人によって誘拐され、イスラエルに連行される、という事件が起きました(一説では、これが KCIA による金大中の誘拐のヒントになったのだそうですが、果たしてどうだか・・・)
で、南米つながり、ってワケじゃないんですが 5 月22日、南米のチリが面した太平洋岸の沖合海底を震源とする大地震が起き、チリで大きな被害(死者 5,700 人)を出したばかりか、そこで発生した津波がおよそ 22 時間後の 5 月24日(日付変更線を挟んでいるため)に日本の三陸海岸に到達し、139 人の死者を出し、家屋や港湾設備などに大きな被害を出しています。
その 4 日後、「あの」 Elmore ゆかりの(?)グアム島から 16 年ぶりに「出てきた」元日本兵が帰国。

カンボジアでは 6 月14日、シアヌークが国家元首となりました。
その翌日は日米安全保障条約の改定阻止を訴える大規模デモが国会周辺で行われ、国会に突入したデモ隊と警察側が乱闘状態となり、東京大学に在学中だった樺美智子が死亡。

Congo

この 6 月はアフリカでの旧宗主国からの独立ラッシュだったのですが、現在のアフリカの混迷をもって「それ見ろ、彼らには統治能力なんて無いのさ」などとほざく「白人至上主義(あるいは西欧至上主義か?)」は、それの遠因が、かっての自分たちの圧政の結果である、とは夢にも思ってないんでしょうね?
まず 6 月30日にベルギーからの独立を果たしたばかりのコンゴ*で 7 月 6 日には残っていたベルギー軍の将校の横暴から民衆の暴動が発生し、これにベルギー政府は兵士を投入することを決定( 7 月 7 日。実際に現地に到着したのは 7 月10日)、そして 7 月11日には親ベルギー派だったチョンベ首相がカタンガ州をコンゴから分離独立させる、と発表し、ここから本来の独立派、そしてチョンベ一派の分離独立派、さらに旧宗主国のベルギーも加えた争乱となり、「コンゴ動乱」と称されるようになりました。三日後の 7 月14日、いちはやく国連は事態を収拾するために、ベルギー軍のコンゴからの撤退、ならびに国連軍を派遣し、停戦の実行と管理を行う決議案を採択しています。
8 月15日には(紛らわしいけど、こっちはベルギー領じゃありません)フランス領コンゴも独立。
旧ベルギー領コンゴの方では 9 月 5 日、カサヴブ大統領がルムンバ首相を解任し、ようやく 9 月13日に国連の調停によって停戦しています。そのルムンバ元首相が争乱にまつわり「逮捕」されたのは12月 1 日のことでした。

* Belgian Congo ─太古にコンゴの地に移って来たバンツー( Bantu 語を共有する「部族」と捉えられることが多いけど、実際にはカメルーン周辺から南アフリカにかけて居住していた 400ほどの部族の集合であり、お馴染みのコイサンや、ピグミーなども含まれる。特定の部族というよりは「文化圏」を表したもの。その中心が Great Zimbabwe であった、としている資料が多い)の暮らす土地であったコンゴに白人が入ってきたのは(歴史上では) 1867 年の Henry Morton Stanley(ウェールズ生まれのジャーナリストにして冒険家。アメリカに渡って市民戦争に参加し、その後ジャーナリズムに身を置く。後に爵位を授けられる。)によるリヴィングストン探査によってでした。
コンゴ川流域はヨーロッパにとって最後の「未踏の地」だったのですが、Stanley はこれまであまたの探検家が挫折していたコンゴ川からその上流のルアラバ川というルートではなく、陸路から入ることに成功(ただし帰りは川下りしてったみたいですが)しています。
その Stanley がヨーロッパに戻ったのが 1878 年のことで、それまで消息が不明で「探検界(?)」の話題となっていたスコットランド人の探検家 David Livingstone(たしか医学も修してたハズで、ために Dr. Livingstone とも呼ばれていたようです。彼はルアラバがナイルにつながるのではないか?と探索してたとか)をミゴトに発見したばかりか、ふたつの川が独立した水系であることも立証しました。
これに注目したのが時のベルギー国王 Leopold II 世で、ベルギー政府が植民地化を躊躇している間に彼自身が直轄統治することを決意し、国際地理学会がブリュッセルで開かれたおりに地図製作や、アフリカに医学の恩恵をもたらすなどの名目で進出する可能性を探り、自らの自由になる Association Internationale du Congo を設立し、ついにはコンゴを直轄統治領としたものです。ここでは Stanley も関わってくるのですが、そこも追い始めると戻ってこれなくなりそなんでヤメときます。
ただし国王直轄の「コンゴ自由州」も 1908 年にはベルギー政府の介入によって終り、それから 1960 年までの長い期間、ベルギー領コンゴ、として存続しました。
その間、主にカソリック(一部ではプロテスタントも)系のミッション・スクールによる宗教と一体となった教育が推進され、教育水準は低くはなかった、とされています。
この後、第一共和制( 1960-1965 )、第二共和制( 1965-1996 )と進むのですが 1996 年からは大きな激動を迎えることとなります・・・

しかしまあ、アフリカってのはホントに「読み」切れない「暗黒のゾーン」なんですよねー。
特に近年の貴金属、希土類などを巡る利権が絡んだ「反政府ゲリラ」による「内戦」の多発は、かっての部族間対立や民族の自立などを主要タームとした「闘争」とは、明らかに位相が異なっており、どちらに正義があるか、なんて切り口では包丁の刃が欠けるの間違い無しです。

まったく、Jimmy Rogers じゃないけど World's in a Tangle ってヤツですね。

Lockheed U-2

コンゴにかなりのスペースを割いちゃったもんで、前段では 1960 年も途中までしか行ってませんでしたねえ。
それも 6 月以降までハナシは進んでましたが、ここではまた別件で少し前に戻らなきゃいけません。
というのは、この 1960 年 5 月 1 日(つまりメイ・デーですね)を狙いすましたかのように、米ソ間でひとつの事件が起きています。
5 月 1 日、ソヴィエト政府は自国の領空でミサイルによってアメリカの高々度偵察機(アメリカ空軍では高々度気象観測機と称していた) Lockheed U-2 Dragon lady( Platt & Whitney J-75-P-13B ジェット・エンジン一基を搭載した単座の多目的機で、実際に気象観測や宇宙線の観測、また衛星からの電波の中継など様々な用途に充てられたため Utility の U が名前となった、としている資料もありますが、CL-282 また ER-2 という名称を示唆する資料もあります。全幅 30m 強に対して翼スパン長が平均 3mほど、と言うアスペクト比 10 で後退角度無しという主翼平面形から想像される通り、速度は遅いものの、軽く 5,000km を超える極めて航続距離の大きい機体であり、もはや乗員に宇宙服なみの特殊なフライト・ジャケット着装が必要な、高度 21,000 から 27,000m ほどの高みから Kodak 社の開発したシュミット・カセグレン系の超高精細解像度の特殊レンズで地上設備などを撮影し、かなり精度の高い軍事情報を収拾していた、とされています。また、この後 1962 年10月14日にはキューバのミサイル基地を発見し、「キューバ危機」の発端となりました。しかしそれが撃墜された、と言うことはソ連側の対空、あるいは空対空ミサイルがこの U-2 の巡航高度にまで到達して来たことを示しており、それに対処するために、アメリカでは今度はマッハ 3 を越える SR-71 Blackbird というパワーでブっちぎるタイプの、まさに U-2 とは対照的な機体を開発して投入しますが、やがて軍事偵察衛星の地上探査能力が向上したことによって、「ゼッタイに」領空侵犯とは言われない周回衛星軌道から軍事偵察することがメインとなっていきます)を撃墜した、と発表。
パイロットだった Francis Gary Powers は捕虜となっています。
ソヴィエト政府は明らかに領空を侵犯してのスパイ行為であるとアメリカを非難し、謝罪を要求しました。
時あたかも Paris において四大国首脳会議が開かれていたのですが、この U-2 スパイ機事件で紛糾し、会議はモチロンお流れ・・・

ところが U-2 事件のセンセーショナルな「スパイ機」というトピックに隠れてさほどの衝撃は無かったのですが、なんと 2ヶ月後の 7 月 1 日に、こんどはソヴィエトの MiG 戦闘機( Mikoyan-Gurevich なので「 Mig 」ではなく「 MiG 」と Gが大文字となる。らしい)がムルマンスク北方のバレンツ海上でこれも領空侵犯をしていた(とされる)アメリカ空軍の Boeing RB-47 H( General Electric J-47-GE-25 ジェット・エンジン六基を二基のクラスターとシングルで主翼から吊り下げた設計で、中距離爆撃機として開発された B-47 Stratojet を偵察任務用に改装し、地上撮影機材、電子情報収集システムなどを積載し、本来の乗務員数が正副パイロットと航法士の三人なのに対し、偵察任務要員が増えているため、六人が搭乗する)を撃墜、生存者二名は、これまたモスクワの虜囚となっています。

MiG-21 Fishbed

おそらくこの時期のソヴィエト空軍、あるいは対空地上部隊のテクノロジーが「なんらかの理由で」飛躍的に向上したのかもしれません。
アメリカ空軍はそれまでも様々な偵察行動を繰り返して、その際の「安全マージン」を経験則から割り出していたハズなのですが、それがこの 1960 年に連続で「通用しなくなった」ワケでしょう。ここで最も大きかったのはソヴィエト空軍に 1959 年から採用された MiG-21(アメリカ空軍の Lockheed F-104 Starfighter にも通じる設計思想で、比較的小さなデルタ形主翼の軽量な機体に充分な出力のエンジンを組ませ、マッハ 2 を出すことに成功した。NATO 軍の識別名は Fishbed )の存在かもしれません。
この直後の 7 月 9 日にはフルシチョフ首相はキューバに対し、防衛用のミサイルを供与する、と発表しました。これが後の「キューバ危機」につながるワケですね。
ただ、一方ではソ連から中国への技術援助を「停止する」ことも発表していますから、中ソ関係が「やや」微妙な側面を持ち始めたことも窺えます。その中国は 7 月23日にキューバとの間で貿易、科学技術、文化交流の協定を結び、また別なベクトルを見せていますねえ。
そのような状況に意を強くした(?)キューバは、国内のアメリカ系を始めとする外国資本が所持していた資産を接収してしまいます( 8 月 6 日)。また 5 月 1 日に撃墜された U-2 のパイロットは 8 月19日、モスクワの法廷でスパイ罪で 10 年の懲役を宣告されています。
そのような緊張を高める方向の米ソ関係の流れに沿うかのように 8 月25日には、こんどはアメリカの潜水艦が北極点で浮上し、乗組員が氷上でソフト・ボールを楽しんで(!)います。これなんて、あからさまに、ワシらはこっからおタクの国土どこへでもミサイル攻撃出来るんでっせ〜、ちゅうのを思い知らせる「嫌がらせ」そのものですよね(事実11月15日には水中にある潜水艦からの「ポラリス」ミサイルの発射テストに成功しています)。

そんな中、大統領選挙に向けて新人の John Fitzgerald Kennedy と、その前の第34代大統領 Dwight Dave "Ike" Eisenhower の副大統領であった Richard Milhous Nixon が選挙戦を繰り広げることとなります。
12月には Eisenhower がフロリダのキューバ難民(亡命者)たちの厚生のための予算を計上しました。このころにはキューバから逃亡してくる難民は週に 1,000 人にも達した、と言われています。

この 1960 年の晩く、あるいは 1961 年の初頭かも?と言われておりますが、Elmore James の次の録音が New York の Beltone Studio で行われています。

1961

1960 年、あるいは 1961 年の初頭かも?の Elmore James の録音ですが、これも New York 録音のせいか、バッキングのメンバーはかっての Broomdusters ではございません。
Riff Ruffin のギターに ピアノは Johnny Acey、前回も登場した Paul "Hucklebuck" Williams のバリトン・サックス、ブラス陣は他にもテナーの George Coleman、トランペットの Danny Moore、トロンボーンの Dickie Harris。ベースは不明ですが、ドラムは Johnny Williams(ただ、Earl Williams としている資料がありますが、これって同一人物なんでしょか?)。
プロデュースはモチロン Bobby Robinson ね。
Strange Blues : Fire 1503: DJM DJD 28008 :PCD 2889/90/91
Strange Blues ( Alternate take ) : PCD 2889/90/91
Anna Lee : Fire 1503: DJM DJD 28008: PCD 2889/90/91
( My ) Bleeding Heart : Enjoy 2015: DJM DJD 28008: PCD 2889/90/91
Standing at Crossroad : Enjoy 2020: PCD 2889/90/91
One Way Out : PCD 2889/90/91
Person to Person : PCD 2889/90/91
My Kind of Woman : PCD 2889/90/91
So Unkind : PCD 2889/90/91
Got to Move : PCD 2889/90/91
Find My Kind of : Fire : Enjoy : DJM :PCD 2889/90/91
そして資料によっては 1962年の My Baby's Gone と同時ではないか?とされており、この時のセッションでの録音かどうかは「?」なのですが、
Find My Kind of Woman : Capricorn 9 42006-2 ってのがあります( P-Vine では 1960 年「か」 1962 年の録音としています)。
ま、それはともかく、この一連の録音中での白眉(?)はやはり Person to Person でしょう。
Eddie "Cleanhead" Vinson のが好き、なんてひとからすりゃあ(ま、おちゃらけ Screamin' Jay Hawkins ほどじゃないにしろ?)「おいおい、なんじゃこりゃあ!コードけちってねえか?」なんて言われそうでございますが、ワタクシ、この割り切りっぷりがなんとも言えず好きなんでございますよ。

さて、またもやコンゴです。
1961 年の 1 月17日、コンゴ共和国の元首相 Patrice Emery Lumumba*が暗殺されました。
* Patrice Emery Lumumba ─ Batatele 族に生まれ、ベルギー領コンゴの時代からミッション系の学校で教育を受けた Lumumba は郵便業務につき、1958 年に創設された All-African Peoples Conference の委員に就任し、さらに Mouvement National Congolais の総裁(あるいは党首・書記長か?)となるのですが、1957 年には着服の容疑で拘束され 1960 年のベルギーの独立に伴う地方選挙では、まだ獄中にいた彼が率いる MNC が過半数を制しています。
独立後のコンゴ政府は MNC を中心に組閣され Lumumba は首相となり、バコンゴ( Bakongo )と呼ばれる部族を中心としたアバコ党( Association des Bakongo )の創始者 Joseph Kasavubu が大統領でした。しかし例の Moise Tshombe(こちらはバ・ルンダ族をメインとするコナカ党─ Conakat Party の指導者。アメリカ系のミッション・スクール出身)がベルギーを後楯として鉱物資源に恵まれたカタンガ州を独立させた分裂(実際には 1891 年に親英的だった同州の族長を斃しベルギー国王が武力で自領に併合したもので、それ以来の「火種」でもあった地区で、これも地方分権を目指す Moise Tshombe が、「 Lumumba は共産主義寄りで、西欧諸国の勢力を国内から追放しようとした」という「名目で」州内を制圧し、これによってベルギー国内の右派ばかりか、西欧の大資本からも非公然ながらも支持を取り付けることに成功し、むしろ Lumumba は自由主義圏内からは「好ましからざる人物」という評価が定着します)やその後の争乱に際し中央集権的政権を指向した Lumumba でしたが、8 月25日にはソヴィエトの援助を受けて、(分離独立を唱えて反旗を翻した Kasai Province )自称「南カサイ鉱山国」を制圧しましたが、その際に、かなりな規模で非戦闘員の虐殺事件を起こしてしまったこともあり(元々「反ソ」的スタンスからこの軍事行動には批判的であった)西側諸国からの Lumumba に対する支持を失ってしまうことになりました。
その流れを受けて、9 月 5 日には地方分権型政治を指向するカサヴブ大統領がルムンバ首相を解任しています。
対抗するルムンバは各種メディアを通じて自らの正当性を主張、民衆の信任を得ている以上、大統領といえども独断で解任することは出来ない、と攻撃を開始します。
ここで、「このままでは国の将来が危うい。混乱を収拾するため、しばらく軍が国政を管理する」という名目で 9 月14日に起きた陸軍大佐 Joseph Mobutu(どうやら正式名は Mobutu Sese Seko Nkuku wa za Banga というようです)のクーデターでしたが、どうやらこれはカサヴブの承諾済みのもので、これによってカサヴブの権限は一層増大し、12月 1 日には Mobutu の部隊により Lumumba は自宅監禁されています。この時の罪状は、陸軍部隊に反乱を唆した、というものでしたが、いずこも同じ「勝てば官軍」果たしてその真相はいかに?
この Lumumba の拘束に強く反発し、釈放を強く求めたのはソ連でした(それには Mobutu によって在コンゴのソヴィエト大使館が強制的に閉鎖された、という事情もありましたが)。
一方、ルムンバを強く支持する東部の Stanleyville 周辺では Mobutu が知識人を集めて政策の実行に当たらせた「委員会内閣」に対抗して「中央政府」を樹立、ルムンバ政権での副首相であったアントワーヌ・ギゼンガ( Antoine Gizenga )が首相となって対立しています。

ところで、このコンゴの内乱には先日のアルジェリアの影が大きく落ちて来ることになります。アルジェリアの独立を容認する Charles de Goare によってアルジェリア現地軍、なかでも、もっとも強硬な独立反対派の牙城であったフランス軍第一外人落下傘聯隊などの士官や傭兵たちがアルジェリアに見切りをつけ、カタンガの Tshonbe が強化しようとした「憲兵隊」に多数流れ込み、一気に「危険な」軍事力を備えるようになっていきます。このあたりの「コンゴ傭兵」については、これまた F.フォーサイスの「戦争の犬たち(でしたっけ?)」あたりで小説化されてたハズ。
そのカタンガにルムンバ支持派の Stanleyville 中央政府が進攻し、北部カタンガ(同じカタンガ州内でも、この周辺は反 Tshonbe のバ・ルバ族のテリトリーだった)を占領して勢力圏を拡大しています。
この時点では、Tshonbe 政府(カタンガ; Katanga )、Lumumba 派の Gizenga 政府(スタンレーヴィル; 現 Kisangani )、Mobutu 派の委員会内閣(レオポルドヴィル─ Léopoldville; 現在の Kinshasa )、さらに南カサイ鉱山(銅山)国が「混在」していたワケです。
事態もここまで複雑になってくると、もはや国連軍も迂闊には動けず、Mobutu 派に捕えられている Lumumba を救出することは「必ず」事態をより紛糾させる、という見方が優勢でした。
そうしているうちに「ナゼか」 Mobutu 派の委員会内閣は Lumumba をカタンガの Tshonbe 派に「送りつけ」る、という行動に出ます。そして 1961 年の 1 月17日(あるいは 18日)に Lumumba は何者かに「殺された」ことを Tshonbe の政府が発表したのは 2 月に入ってからのことでした。
これによって世界各地で委員会内閣政府とカタンガの Tshonbe 政府に対する抗議行動が起きています。
やはりソ連に接近しようとしたルムンバに対して、西側諸国は「やや冷淡だった」ということがこの結果を招いたのかもしれませんね。

この後、コンゴではカタンガを除く勢力が結集して中央政府が成立するのですが、それで和平が訪れる・・・などとノンキなことを考えてはいけまへん。
事態はさらにさらに悪化していくのですが、ホント冗談抜きで、このコンゴでの混乱を追っていけば、小説の二・三冊はモノに出来る!っちゅうくらいの複雑な絡みがあって、とても「ついで」で語れるようなものじゃございません。
ま、この先もまだ根気が続くようだったらコンゴの「その後」を・・・

Kennedy

1961 年という年は、John Fitzgerald Kennedy が大統領となった年ですが、その前年の11月20日にヴェトナムで結成された南ヴェトナム開放民族戦線 NLF が次第にその勢力を伸ばして来ており、またキューバもソ連からの援助で徐々にそのプレゼンスを増している時期での出発となっています。
まるでその多難な前途を象徴するかのように就任四日後の 1 月24日には North Carolina の Goldsboro 付近に 24 メガトンの核弾頭二発を搭載した B-52 Stratofortress( Strato-; 成層圏の、を意味する接頭辞と Fortress; 要塞を合成したもので、そ、お馴染みの Fender Stratocaster にも含まれておりますねえ。工芸品的「楽器」であり続ける Gibson に対して、Fender 社は宇宙に目を向けた、ってことでしょか?)が墜落する、という事故が起きました。
ただ、Stratocaster(注; Fender Stratocaster は 1954年から)じゃないけど、Kennedy になってから、軍事関連予算に対する宇宙開発の予算の伸びが著しくなり、政府としての関心が「より高々度」へと上昇してゆく傾向を持つようになります。

2 月 9 日には、前段でとりあげたコンゴの元首相 Lumumba がすでに Elisabethville で殺害されていたことが判明し、世界的な非難がカタンガや、なんら有効な救済手段をとれなかった国連に対して浴びせられました。
ところで、4 月12日にソ連の宇宙船がユーリ・ガガーリンを乗せて、初の有人宇宙飛行を実現したことによって、アメリカは大いに危機感を抱いた、とされています。
しかしそんな中、アメリカはキューバのピッグス湾侵攻なんてことをやって、しかも失敗してるんですよね。これを諜報関係を新大統領が把握しきれていなかったから、とする分析もあるようですが、こと諜報機関がらみの力関係は伝聞や憶測が多く、その真偽のほどは判断が難しいようです。
そのアメリカが有人宇宙飛行で追いついたのは 5 月 5 日、飛行士は Alan Bartlett Shepard でしたが、この時の飛行は厳密には周回軌道に乗ってから大気圏に再突入、というものではなく、「宇宙高度」にまで到達することに成功した、と言うべきでしょう。
しかも地上では 5 月14日、Washington D.C.から南部に向かった差別に反対する Congress on Racial Equality のメンバー(白人と黒人の活動家が共に乗っていた)のバスが Alabama 州の Anniston で火焔ビンによる「焼き打ち」にあい、引きずり出された乗員は白人の差別主義者によって暴行され、別なバスはレンガや鉄パイプ、こん棒にナイフなどで武装した暴徒に襲われていますが、なんとかその Freedom Riders 運動を続行しています。しかし、最終的には 5 月21日に Mississippi 州 Jackson で白人による流血を伴う暴力で潰されました。
この件に関して John Fitzgerald Kennedy が「なんら」有効な保護手段を採っていなかったことは明らかで、こと、公民権に関しては次の Johnson 時代の方が「前進」している、とする分析は当たっているように思います。
なにしろ、そのように足元でアメリカの理想が危機に瀕しているってのに、次の日に Kennedy が発表したのは人類を(って言うより、アメリカの「白人」を、だね)月に送り込む、というアポロ・プログラムでした。

その Kennedy は 6 月 4 日にウィーンでフルシチョフ(なんでフルシチョフはカタカナか?ってえとキリル文字では表記も、またそれによるネット検索も難しいからでごわす。なるべくダイレクトに Google や Yahoo USA の検索に進めるように原文に則した表記を優先していますが、さすがにロシア系はねえ・・・)と会談し、核実験や西ドイツ駐留米軍の問題などについて話し合っています。

Kwait

その 6 月も末近い 25日には当時のイラク大統領アブドゥル・カリム・カッセムがクウェートを併合する、と発表し、クウェートは英国に援助を求め、英国陸軍がクウェートに送られました。
つまり、イラクにとって「クウェート」ってのは自国の一部を、西欧資本におだてられた反乱分子が勝手に建国した、本来は「イラク固有の領土」である、という認識なんですねえ。

Kwait; オスマン帝国統治下ではバスラ州に所属し、そこで 1756 年以来、大きな勢力があったサバーハ家の首長のもとで自治を行っていたクウェート地区は、1899 年にイギリスの保護国となってイラクから切り離され、さらに 1914 年にはイギリスの自治国となっています。
1961 年 6 月19日には独立を果たしました。これを受けてイラクは、独立ではなく、「本来の」イラクに帰属するべきだ、と主張したワケですが、そもそもイギリスの関与以前にはサバーバ家の統治下にあったワケですから、クウェート側には当然、「イラクから」独立した、などという概念は存在していないようで、これが西欧社会をして「イラクの邪悪な侵攻」と言わせる由縁となってるみたい。
一方のイラクはこれもイギリスによって 1921 年に国家として形成され、第一次世界大戦中のアラブ独立運動に関わったハーシム家のファイサル・イブン=フセインを国王に据えたもの。しかしそれ以前に、オスマン帝国の旧領土を分割する際に、一時、現クウェートもまとめて「イラク地区」的扱いであったために、クウェートを自国領、と主張する根拠となっています。
そのイラク王国は 1958 年のクーデターによって共和制の国家となり、次第に主流となっていったバース党が主導権を握り、そして 1979 年にはお馴染みのサダム・フセイン、となっていく・・・

7 月21日、マーキュリー・プログラムでアメリカの宇宙カプセル Liberty Bell 7 が Gus Grissom の操縦で「初めて」宇宙周回軌道に乗り、「本当の」宇宙飛行を成功させています。

一方で、東西の冷戦を象徴するベルリンの壁の建設が始まったのが、この 1961 年 8 月13日のことでした。

・・・と、たぶんこのあたりじゃなかろうか?と思う( Summer of 1961、とあるので)んですが New Orleans、とくればモチ(?) Cosimo Matassa の Cosimo Recording Studios で Elmore James のレコーディングが行われております。
プロデュースはこれもとーぜん Bobby Robinson で、バックにはハープの Sammy Myers、ピアノの Johnny "Big Moose" Walker、ベースに Bobby Lee Robinson(えっ?もしかして Bobby Robinsonのミドル・ネームが Lee なの?と探ってみましたが、どーも別人みたいですねえ。それと、この時のベースを Sammy Lee Bully としている資料あり)、ドラムが King Moose(同じ別資料では Sam Myers「も」、としています)。
Shake Your Moneymaker : Fire 504: Enjoy 2022: PCD 2889/90/91
Look on Yonder Wall( with Hca.) : Fire 504: Enjoy 2022: PCD 2889/90/91
Mean Mistreatin' Woman-take 1. : PCD 2889/90/91
Mean Mistreatin' Woman-take 2. : PCD 2889/90/91
Mean Mistreatin' Woman-take 3. : Enjoy 2020: PCD 2889/90/91
Sunnyland Train : PCD 2889/90/91
Go Back Home Again* : Capricorn 9 42006-2

*─ この曲、たぶんこのセッションで録ったものじゃないか、としてる資料もなんか自信無さげだし、なんだかなあ。

この Elmore James のセッションの正確な日時が判らないんで(それが判ってたら Yonder Wall とベルリンの壁のカンケー、なんてヨタもトバせたかも)、もしかすると、時期が前後しているかもしれませんが、9 月17日、コンゴのカタンガに飛んでいた国連の事務総長 Dag Hjalmar Agne Carl Hammarskjöld が航空機事故で死亡しています。事故ねえ・・・
10月25日にはイギリスで風刺雑誌 Private Eye が創刊され、そしてアメリカにとっての「ヴェトナム戦争」が、サイゴンに米軍のヘリコプターと兵士 400 名が到着したことで実質的に「始まった」のもこの 1961 年12月11日のことでした。

My Kind of Woman

前段では 1961 年夏と言われる New Orleans 録音を採り上げましたが P-Vine PCD 2889/90/91 に付属する Discography では 1962 年( 1960 年かも、とありますが)にも New York で二曲録音、となっていますが、こちら、バッキングはすべて不明でして、しかも手元にある Red Robin をはじめとする Fire、Fury、Enjoy などの Bobby Robinson のレーベルのシングル盤を網羅した(と思われる) Discography を浚ってみてもこの二曲はやはり浮上して来ません。
ただ、他の資料では曲名が違いますが 1960 年の New York 録音で、Find My Kind of Woman を別テイクこみで二つ併記しているものがあり、これが PCD の Discography では 1960 年の My Kind of Woman と、おそらく 1962 年とされる別な New York 録音での Find My Kinda Woman とに識別されているようです。ついでながら、この 1962/New York では、もう一曲、My Baby's Gone も録音されているようです。

この 1962 年は Washington の National Gallery of Art でアメリカで初めてレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が公開されています。
ん?モナリザと言えば Little MiltonGrits Ain't Groceries ?ん〜、残念ながら、それ、Little Milton のオリジナルちゃいまんねん。
作ったのは Titus Turner だし、おまけにそれを採り上げてヒットさせたのは Little Willie John ってひとで、しかもそれ 1955 年のことですから、このアメリカ初公開とは関係おまへん。ま、この曲はあの Wet Willie もやってるんで特に覚えがよろしいのではございますが。
え?じゃあ Nat King Cole は?でへへ、そっちは 1950 年ですからもっとちゃいますねえ。

OAS

ま、なんてことはともかく、この 1962 年 1 月22日には OAS ( Organization of American States;米州機構。フォーサイスの小説「ジャッカルの日」の元になった 1961 年にアルジェリアのコロンやフランス空挺部隊、外人傭兵などを核として設立され、アルジェリアの独立を容認する Charles de Gaulle をつけ狙った秘密組織 OAS; Organisation de l'armée secrète とはとーぜん「別のもの」)が発足していますが、これはまあ、あからさまに言えば、中南米の共産化を防ぐ、と。いえいえ、それどころか、共産化を防げるのなら、どんなスットコドッコイによる独裁政治だってアメリカがサポートするぜ、みたいなスタンスで両大陸を「アメリカが」管理することを目指したもので、ここでの「アメリカナイズ」をその後世界にまで拡大して「ぐろーばらいぜーしょん」なんてことを言いだすワケでしょねえ。
そんなワケですから OAS 総会ではさっそくキューバの除名を決定しております。

2 月に入ると、ド・ゴールがアルジェリアの独立を認可( 2/5 )し、8 日には南ヴェトナムにアメリカの軍事援助司令部が開設され、翌日にはサイゴンのアメリカ軍事援助顧問団がその援助軍司令部となりました。
そのまた翌日には例の U-2 機のパイロットで、撃墜事件以来ソ連で投獄されていた Francis Gary Powers が、アメリカによって捕えられていたソヴィエトのスパイ Rudolf Abel との交換で引き渡されています。
3 月 8 日にはジュネーヴでアルジェリア独立派側の FLN とフランス政府との交渉が開始されました。そしてその 10 日後、Evian において協定に調印し、ここで「アルジェリア戦争」は公式には終結いたします。
しかし OAS(こっちは暗殺者集団のほーね)はその翌日も、アルジェリアでのテロ行為を継続しておりました。
そのようにして FLN を刺激し、「交戦状態」に持ち込むことが出来れば Evian 協定は無効化し、独立を「ちゃら」に出来る、という見込みから、この 3 月だけでも実に 100 回を超える爆弾によるテロを仕掛けています。
後に首謀者と言われる Raoul Salan が捕えられ、さらに主要なメンバーも次々と逮捕されたために 6 月の17日にはついに FLN との休戦に同意し、1963 年には実質的に「消滅」してしまいました(「ジャッカルの日」でも描かれておりましたが、残党はフランス本国に潜伏し、「裏切り者」ド・ゴールの抹殺を謀った、ってのは確かに「あり得る」話ではございます)。
3 月15日にはノーベル物理学者 Arthur Holly Compton が死亡。ハッブルの言う赤方変移をドップラー現象によるものではなく、このコンプトン散乱によるもの、として「拡大して行く宇宙」を否定する「反ビッグ・バン」論者(ハンネス・アルフベンの「プラズマ宇宙」、フレッド・ホイルの「定常的宇宙論」)などに採用されるなど、根源的な宇宙論の分野でその存在は重要なものでした。
7 月 1 日にはコンゴの東側に隣接した小さな国ルワンダ( Rwanda*)が独立しました。

*Rwanda ─本来はピグミーと言われた種族が主に居住していたようですが、次第にフツ族( Hutus )とツチ族( Tutsis )が大勢を占めるようになってきた地域です。
1895 年にはドイツの植民地となりましたが、第一次世界大戦でドイツからベルギーの管理へと移行し、ベルギーによる植民地政府はフツ族よりもツチ族を登用し、この期間にフツとツチの間には生活水準にしても社会的な地位でも大きな差が生まれました。
この欧州からの白人層がなぜツチ族を重用したか、というと、そこには例によって(ナチの思想にまでつながるような)「誤った」人類科学が背景にあり、遊牧を主としていたツチ族は、エジプト由来の「黒いアーリア人」で「高貴な血を受け継いでいる」としてしまったからで、実際には貧弱な農地に依存して、農業でようやく暮らしていたフツ族の中でも、なにかの機会で牛を手に入れて遊牧に入ったものは「アイツはツチ族になった」と言われていたそうですから、そんなのはまったくのナンセンスで、実際のちに導入された DNA による血統の同定では、ツチ、フツ両者ともに同じ人類学的な系統であることが判明しています。
こうしてドイツからベルギーへ、という白人による植民地政府の統治下のルワンダではツチ族がはばを利かせていたのですが、これが最初の悲劇の下敷きとなります。
ルワンダが独立することによって外国の支援を受けることに成功したフツ族はこれまでの恨みをはらすかのようにツチ族を虐待し始めました。ところが、まったく同じこの 1962 年 7 月 1 日に、独立を果たしたブルンディ( Burundi、ルワンダの南に位置するほぼ同じような大きさの国)では逆にツチ族が権力を掌握し、国内のフツ族を弾圧し始めたためにフツ族は難民となってルワンダに逃げ込み、このツチによって弾圧された経験を持つフツ族難民が後の( 1994 年の)大虐殺でも大きな役割を果たすことになるのです。
さらに悪いことに北部の裕福になってきたフツ族は貧しいままのフツ族に対し、社会的不公平はツチ族によるものだ、とのデマを流布させていました。そして国際的な非難を考慮して対立を煽る行為を制限しよう、としていたとされる時の大統領が暗殺(乗機が撃墜されている・・・)されるや、それを契機にツチ族の大虐殺が始まってしまったのです。
・・・しかしそれはいづれも 20 世紀も終り近い時期の話で、この時点( 1962 年)ではまだ、やがて来る「悲劇」のほんの「序奏部分」にすぎません。

7 月10日には人類初の「通信衛星」 Telstar も打ち上げられていると言うのに、いかなる通信手段の登場も、不信や憎悪というバイアスの前では無力なもののようですね。
その 7 月の末にはアルジェリアに自前の大統領 Ahmed Ben Bella が誕生しています。
8 月 5 日には、Marilyn Monroe が死亡しているのが発見されました。そしてその翌日にはジャマイカが独立。9 月 2 日にはソヴィエトがキューバに武器供与を決定。
10月 9 日にはウガンダがイギリスから独立。

そして運命の(?) 10月14日、アメリカの高々度偵察機 U-2 がキューバで建設中の基地にソヴィエト製の中距離核弾頭ミサイル( MRBM )が搬入されるのをキャッチした!と公表し、アメリカの全戦略ミサイルを臨戦態勢にすると同時にキューバへの一切の物資の搬送を阻止する海上封鎖を実行。
およそ二週間にわたった危機は、アメリカ側がトルコ国内に配備していた NATO 軍の戦略ミサイルを撤去することと引き換えにキューバの核武装を解くことで決着を見ましたが、これが第二次大戦以降、世界がもっとも「破滅に近づいた日々」と言われています。
・・・公式には、ね。

China vs India

前段の 1962 年のキューバ危機、その陰に隠れて、っつーワケじゃないでしょうが 10月20日、中国がかねてより国境線*について紛争中であったインドに対し、国境で攻撃を開始しています。
ま、この紛争に関しては 11月21日にそれまでに武力で侵攻した占領地域を「放棄」して中国側が自主的に(?)停戦することで一応の終結をみています。

*─中印国境紛争;英国統治下のインド時代に英国側が、いわゆるマクマホン・ライン( McMahon Line )としてチベットとの間に勝手に「決めた」国境線の位置については、(実際の国境警備をそこまで出張して行うのは困難であったため、実質上の警備線をもっと南に置いていたこともあって)そのまた隣国である中国も同意はしないまでも「黙認」的な扱いではいたのですが、中国が中華人民共和国となり、インドも英国からの独立を果たした後の 1950 年、中国がティベットを制圧したことからインド首相 Jawaharlal Nehru は、旧マクマホン・ラインにまで国境警備隊の位置を前進させました。これはモチロン中国の受け容れられるところではなく、中国側も国境線を押し戻そうと国境警備隊を投入し、互いに「押しては引く」を繰り返していたのですが、ついに 1962 年、中国側は国境警備隊ではなく「正規軍」を投入してそのラインを突破したものです。
というのも、一方のインド側では旧宗主国のイギリスの想定したマクマホン・ライン自体が歴史的なインドと周辺地域のこれまでの経緯からすれば、あまりにも安易に策定されたものであり、実際にはもっと北側にまで国境は移動させるべきだ、という論議まであって、インド側の守備隊では何度も越境し、そのラインの北側にまで前進した橋頭堡を築きつつありました。
その中のひとつ、Dhola の拠点が 60 人の中国人民軍に包囲され、これが銃撃戦に発展し、中国正規軍が一ヶ月後の 10月20日に動員されることとなります。
人民解放軍は組織的な攻撃によって、一挙にその地域を広げ 24日に交渉することをインドに提案しますがインド政府は即座にこれを拒否し、こちらも正規軍を現地に送り込みました。ただし、戦闘は中国人民解放軍の優勢なままで推移し、インド側はその地域が「僻地」であるために補給線の維持が問題で、これが中国軍の跳梁を許した一因であった、とされています。
しかし、戦列が(勝利することによって)南下するにつれ、それは中国軍にとっても同じウィーク・ポイントとなるわけで、それをさとった中国側は、この制圧地区を自国領と宣言することは、国際的な非難を受けるばかりか、やがてはアメリカの軍事的介入を招く恐れがある(事実アメリカはすでに物資補給の側面支援で、インドに空軍機を飛ばせています)こと、さらに今後、そこを国境として警備するには、プアな道路状況を乗り越えて補給物資などを届け続けなければならないワケですから、「勢いにまかせて」飛び出してはみたものの、冷静に考えれば「さほどメリットは無い」ということで「一方的に」停戦を宣言し、「最大版図」から大きく後退して事態を収拾させました。
中国にとっては「言いたいことは言った」的なこの紛争でしたが、インド側にしてみれば、これは「国辱」であったようで、国家防衛を担当する大臣は辞職し、以後、国軍の強化が至上命題となったのでした。
後に( 1980 年代のアルナーチャルプラデシ州、1990 年代のナムカチュウなど)インド軍による侵攻という形でその成果(?)は現れてくるのですが、両国の国境についてはいまだに明確な合意は得られてはおりません。
それでも、現在は、定期的な会談によって協議が続けられています。

この 1962 年の暮れには北朝鮮が全人民の武装化、さらに全国土の要塞化を決定し、アメリカとソ連の首長間にホット・ラインが提案され、さらに 12月22日から翌1963 年の 3 月 5 日まで、最低気温が 0℃ を下回る、という記録的な "Big Freeze" が英国を襲っています。

Last recordings

この 1962 年の末かあるいは翌1963 年の初めに New York の A-1 Recording Studioで Elmore James の「最後の」レコーディングが行われました。プロデュースはもちろん Bobby Robinson ですが、ピアノの Johnny "Big Moose" Walker ( alt. Walking Willie )以外のパースネルは不明です。
It Hurts Me Too : Enjoy 2015: Fire 2020/5000: PCD 2889/90/91
Everyday I Have the Blues : Enjoy 2027: Fury 2000: PCD 2889/90/91
Pickin' the Blues : Enjoy 2015: Fire 2020/5000: PCD 2889/90/91
Up Jumped Elmore : Fury 2000: PCD 2889/90/91
Dust My Broom : Enjoy 2027: PCD 2889/90/91
Hand in Hand-take 1 : PCD 2889/90/91
I've Got a Right to Love My Baby : PCD 2889/90/91
Talk to Me Baby : PCD 2889/90/91
Can't Stop Loving My Baby : PCD 2889/90/91
She's Got to Go : PCD 2889/90/91
Twelve Year Old Boy : PCD 2889/90/91
I Believe : PCD 2889/90/91
I Gotta Go Now : PCD 2889/90/91
Make My Dreams Come True : PCD 2889/90/91
Back in Mississippi ( conversation ) : PCD 2889/90/91
Look on Yonder Wall : PCD 2889/90/91
You Know You Done Me Wrong : PCD 2889/90/91
Black Snake Slide ( alt. Blacksnake Blues ): PCD 2889/90/91
以上が P-Vineの PCD 2889/90/91のライナーの Discography に記載された録音のリストなのですが、一部の資料では、この他に
Hand in Hand-take 4 : Capricorn 9 42006-2
You Know You're Wrong : Capricorn 9 42006-2
がこの時の録音では、としてあるのですが、この Capricorn は持っていないので、なんとも言えません。
ま、それはともかく、この録音では、かっての彼自身のナンバーを再録音しているものが見られるのですが、そのヘン、評価が別れるところでしょう。
たとえば Talk to Me Baby で言えば、あの CHESS でのテイクとはかなり違ってますよね。ワタクシがこの曲に惚れ込んだのも、Whose Muddy Shoes を先に聴いていたからであって、こちらが先だったら My Favorites には Happy Home がなっていたかもしれません。
1960 年の CHESS への吹き込みを最後に、彼は Chicago での吹き込みをしていませんが、これは、彼が Chicago の Musician's Union と衝突していたためで、それで New Orleans や New York での録音だったんですねえ。
そんな彼が 1963 年の 5 月に再び Chicago に現れ、関係の修復に入ろうとしていた矢先に彼はまたしても発作に襲われ、しかも今度は快復することなく、そのまま還らぬひととなってしまったのでした。
Elmore James はこうして、わずか 45 年の生涯を 1963 年 5 月24日に閉じました。
彼の墓は Mississippi 州の Ebenezer から Lexington への間にある The Newport Missionary Baptist Church の墓地にあり、現在見られる黒御影石状の正面に文字の刻まれた墓石は 1992 年12月10日に Capricorn Records の Phil Walden の音頭で建立されたものだそうです。

Elmore James

1963 年の 5 月に再び Chicago に戻り、僅かその 4 日後の発作で一生を終えた Elmore James でしたが、その直後に訪れたブルース・ブームを思えば、もうちょっと生きててくれたら、という思いもあります。
それでも彼がブルースの世界に残していった遺産は(後継者なんているワケはないけど)様々な形で受け継がれ、今に生きているんじゃないでしょか。

でも、Elmore の後を継ぐものとして、たとえば Hound Dog Taylor や、J.B. Hutto なんて名を挙げることもあるようですが、それはあまりにも安易な「見かけ」の類似性だけでの話で、いまさら言うまでもなく Elmore James はまさに「彼ひとり」であり、同様に Hound Dog Taylor も「彼だけ」の世界を持っています。
その意味では Elmore James の「ニュアンス」をもっとも良く受け継いでいたのは、案外ジョージ・サラグッドだったかもしれませんね。
・・・なんてことはともかく、Elmore James は 1980 年には the Blues Foundatuion's Hall of Fame、そして 1992 年には the Rock & Roll Hall of Fame に名が挙げられました。

ところでこの 1963 年は Los Angeles に、アメリカ初のディスコ Whisky A Go-Go が 1 月11日にオープンした年でもありました。また 7 月 1 日には後に日本でも採用することになる、住所に対する固有の番号を設定して郵便業務を円滑にするための zip-code が採り入れられています。
しかし、未来永劫に(?) 1963 という年号をアメリカ国民(および多くの国の人々)の記憶に刻み込むことになる大事件は 11月も末近くに起きるのですが、それ以外の動きも忘れてはなりません。

この年の 1 月14日にはフランスの Charles de Gaulle 大統領が、イギリスの EEC 加盟に反対する、と発表しています( 3 月 4 日、Charles de Gaulle をつけ狙い、暗殺を企てたものの失敗した旧 OAS のメンバー 6 人がパリで死刑判決を受けています)。その同じ日にはコンゴのカタンガ州で CONAKAT 党を立ち上げて同州を独立へと誘導した Moise Kapenda Tshombe が国連軍によって拘束されています(それによって彼はヨーロッパに追放されることになるのですが、やはり舞い戻り、しかし、そこでまた今度はスペインに追われています。1967 年に彼の乗った旅客機が「ハイジャックされてアルジェリアに向かわせられ」、その地で 1969 年に死亡するまで収監されたのでした)。
2 月 8 日には Kennedy 大統領によって、アメリカ国民のキューバへの渡航、投資、商取引をすべて「違法」とする決定がなされています。
2 月28日には「公民権特別教書」を提出し、人種差別に対する政権の姿勢を「ある程度」アピールはしました。この年は公民権運動に関して、実に多くの動き(それも多くの犠牲を伴う)があったのですが、その詳しいところは、2004 年 11月11日から 21日間にわたって「連載」しちゃった Sly & the Family Stone の方をご参照下さいませ。

4 月15日、London に 70,000 人もの「反核」平和行進が到着。
5 月23日、Fidel Castro がモスクワ訪問。
ヴェトナムでは 5 月以来、ゴ・ディン・ディエム( Ngo Dinh Diem )の仏教徒に対する弾圧政策に抗議して民衆のデモが頻発していましたが 6 月11日、サイゴン市街の交差点でひとりの老僧が焼身自殺し、世界に衝撃が走りました。この時、ゴ・ディエン・ディエムの弟で秘密警察と軍の特殊部隊を掌握し信頼も篤かった Ngo Dinh Nhu=ゴ・ディエン・ヌーの夫人で、当時ヴェトナム社交界ではファースト・レデイとされていた Madame Nhu はこの焼身自殺を「バーベキュー」と発言し、民衆の反感と、世界からの非難にさらされることとなりました。
その翌日には「公民権運動」のとこでも触れた活動家 Medgar Evers が Mississippi 州 Jackson で射殺されています。
8 月 5 日には地下を除く核実験を禁止する条約が調印されましたが、中国とフランスはこれに参加することを拒否しています。すでに「持っていた国」と「これから持つ国(ま、実際にはフランスなんてけっこう開発が進んで核実験だってやってたんですけどね)」の差でしょうか。かわりに(?)インドがこの条約に後から参加しています。

8 月18日、サイゴン市内で仏教徒による反政府デモが行われましたが、まるでそれに対する報復でもあるかのように 21日には Ngo Dinh Nhu の指示によって南ヴェトナム軍の特殊部隊が仏教寺院を襲撃しました。これに対してはカンボジア政府が抗議して「断交」。
8 月28日、ワシントン大行進で、有名な "I Have a Dream"というあのスピーチが Martin Luther King から披露されました。
アメリカとソ連の両国指導者間を直接つなぐホット・ラインが開通したのもこの 8 月の 30日です。
9 月15日には Alabama 州 Birmingham であのバプティスト教会爆破事件が起こり、黒人 4 人が殺され、負傷者も 22 人にのぼりました。
9 月16日にはマレーシア連邦が独立したのですが、18日、その対応をめぐり、ジャカルタの英国大使館が暴徒によって焼き打ちされています。
10月の 1 日、ナイジェリアが連邦共和国、9 日にはウガンダが共和国に(その間の 10月 4 日、イラクがクウェートを承認してるんですねえ)。同じ日にケネディ大統領は空前の不作で食料不足に陥ったソ連に小麦の輸出を承認(興味がおありのかたは「ルイセンコ・ラマルク派」ってのでお調べくださいませ。遺伝学上の誤謬が政治によって誘引された実例を見ることが出来ますよん)。
10月15日、大韓民国の大統領選挙で朴正煕が当選。
11月 1 日にはヴェトナムでアメリカの支援を受けたとされる(自らカソリック教徒で、兄も司教の座にあったためか、仏教に対して「敵対的」で、仏教徒は共産主義者と協力している、という名目で各地の仏教寺院を襲撃して破壊し、先の焼身自殺に対しても平気で「バーべキュー」などと発言する Ngo Dinh Diem とその政権に、アメリカも次第に距離を置くようになっていましたが、これ以上、この政権を継続させることは南ヴェトナムの「崩壊」につながる、と判断し Duong Van Minh 将軍と示し合わせてクーデターを「誘導した」と言われています)クーデターが勃発し、Ngo Dinh Diem の一家は殺害されてしまいます。
とは言ってもあの「バーベキュー」とヌカした Madame Nhu はその時、娘の Le Thuy とともにビヴァリー・ヒルズにおったのですが。
しかし、Duong Van Minh を首班とする革命将官評議会が成立したものの、これでヴェトナムの混迷が収束に向かう訳もなく、アメリカはとんだ泥沼に足を突っ込んでいたことに気付かされる、ってワケ。

そして運命の 1963 年11月22日、Texas 州 Dallas において、オープン・カーで市内をパレード中のアメリカ第35代大統領、John Fitzgerald Kennedy は何者かの(「公式捜査資料がどうであれ」おそらくは複数の射手による)狙撃によって暗殺されました。
一応、その犯人とされる男は確保されましたが、その男もまた別な男によって「実にカンタンに」暗殺されており、単独犯→それをケネディびいきが報復として射殺→ちゃんちゃん!・・・なんて茶番を信じるひとはおりますまい。

Kennedy の副大統領、Lyndon Baines Johnson は後を継いで第36代大統領となったのですが、それがヴェトナムの戦局に、どのような変化を与えたか?については諸説あって定かではありません。
ただ、公民権運動の流れと、アメリカ政府のそれに対するレスポンスを見ている限りでは、Johnson 時代の方が「実りある」ように思えるのも事実です。
ま、それだって、いや、ケネディが生きていたらその後、大改革をしてたかもしれんよ、という仮定を否定しきれるほどの確証があるワケじゃないんですが・・・


さて、Elmore James が生まれた 1918 年 1 月27日から、彼の死んだこの 1963 年までを「何の脈絡も無く」並行して扱ってきました。
でも、その時代というものが、そこに生きた人間の存在にどんな影を落としていたか、は本人でなきゃ(あるいは本人でも、か?)判らないでしょう。
でも、やはり「時代」は歌であれ文学であれ、そこに様々な位相で潜伏しているものなのではないか?と思っています。
ただ単に、ああ Elmore ってこんな時代に生きていたんだな、っていうだけでも充分。
誰から学び、誰になにを伝えたか、ってのも価値あることですが、どんな社会に生きていたのか?を主眼にした、こんな見方もタマにはいいでしょ・・・(ということにしておこう)



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