BIOGRAPHY



Elmore James

1914年に、ヨーロッパで始まった「第一次世界大戦」が、ようやく休戦となった 1918年の 1月27日、Mississippi州 Holmes Countyの Richlandにあったプランテーションで暮らす Leora Brooksというまだ 15才の女性が男の子を生みました。それは「私生児」であり、今もって、その本当の父は誰であったのか、は知られておりません。
その子は Elmoreと名付けられましたが、すぐに Leora Brooksをその子供とともに迎えた、言わば継父 Joe Willie Jamesが名付けた、とも言われております。
その後、一家はいくつかあった Durant農園を小作農として渡り歩いていた、とも言われますが、主に母の意向で「やりたいことをやらせる(放任主義的な意味合いではなく、子供の自主性を尊重する、という)」育て方をされたらしく、資料によって 7才、あるいは 10才と多少の違いは見受けられますが、そんな年齢で自作の Diddley Bow*で音楽に親しみ始めたようです。

* Diddley Bow: Diddleは「騙しとる、インチキ」のムリヤリ形容詞化で Bowはモチロン「弓」。
もともとはホウキの柄にブラシ状の藁などを縛りつけているワイヤーをほどいてしまい、それを弦として張った単弦の楽器。その作り方を解説したサイトによれば、納屋の壁やドアの枠などに、適当な間隔で二本のしっかりしたクギを打ち(全部打ち込んじゃっちゃダメよん)その二本の間にホウキをバラして手に入れた針金を「なるべくピンと」張ります。そしたら一方のクギのそばで弦の下に差し込んで、そこで軽く弦が折れる感じになる高さの木片(弦を持ち上げる側は尖っている三角形の断面が望ましい)を用意して差し込んでブリッジとします。これを前後させることでキーに合わせてチューニングも出来る、ってワケでしょか?
その木片で持ち上げたそばをつまびくのですが、音高は太めのクギ、あるいは瓶のクビの部分、あるいはポケット・ナイフなどで押さえることによってコントロールします。いわゆる単弦スライド、ですね。
この場合、弦の振動は木片が駒となって「納屋の壁」あるいは「ドア枠」を共鳴させることで、ある程度の音量は確保できたんじゃないか、と思います。
ただ、そのままでは、その場所に行かないと弾けませんから、不便っちゃあ不便ですわな。
それを解消するために、割としっかりした(かなり強く針金を張っても折れたりしない程度の)棒状、あるいは長さとある程度厚さのある板の両端に釘を打ち、同様にしてブリッジも作れば、「ポータブルな」 Diddley Bowが完成します。
モチロン、共鳴する構造を持っていませんから、音量は期待できませんが、逆に部屋の中でいちんちじゅう弾かれて、親がキレる、なんて危険性を少しは回避できたかもしれませんねえ。
で、もう少し悪知恵がついてくると、それに共鳴させるための箱状のものを取り付けたりする、と。Cigar Box(葉巻の箱)とかね。
ブルースにおけるスライド奏法(とりわけ単弦スライド?)の源泉である、とも言われておりますが、ま、中には、そんな経験は無くて、ハワイアン・スティールに触発されて、なんてブルースマンだっていたかも?
この Diddley Bowを前後逆転さすと Bo Diddleyになる・・・
─ Bo Diddleyですが、本人もそのジョークが「お気に入り」だったようで、彼のギターがモロ Cigar Box Guitarのデザインになってるんですよねー。本来はホウキをバラして手に入れたワイヤーを張った自作ギター、の意味なんですが、それが転じて、ちゃんとした弦だろうが、本体が自作ならそれも Diddley Bowだったんでしょか)


さて、それはともかく Elmore少年のほーは、いつごろ「納屋の壁」から、抱えて持って歩ける Diddley Bow、それとも一足跳びにホントのギターに移行したのでしょうか?
ザンネンながら、そこらを著述した資料にはまだ出逢っておりませんので、正確なことは判りません。
10才のころには( Diddley Bowじゃなく self made guitarとしている資料がありますから 7才で Diddley Bow、10才では「ポータブルな」自作ギターになっていた、ってことかもしれません。一説ではその自作ギターっての、ホウキの柄とラード缶で出来ていた、とか)ギターを弾きながらブルースを歌っていた、と言いますから、いや、なかなかに早熟なほうだったのかもしれませんよ。
ただし、彼自身が本物の「自分の」ギター( Nationalの 20$のもの、だそうで)を手に入れたのは、やはり「 10代の前半だったようです」。
すでに 10才のころにはブルースを弾き語っていた、といいますが、おそらく 10代の半ばでは、近所で催されるパーティに招かれ(てか、押し掛けて、かは判りませんが)チップを稼げるようになっていたから、ギターを買うことが出来たんじゃないでしょか。資料によっては、その頃すでに Juke Jointから仕事が来ていた、としているものもあります。

ところで、この頃の「メディア」の状況はどうなっていたのか?といいますと、1930年代半ばの市場調査では、黒人家庭の 27.6%が「蓄音器」を所有していた、とされており、同時に調査された AM放送の受信機は 17.4%でした。
安直に考えれば、身銭を切って「ソフト(つまり 78回転の SPですな)」を買わなきゃいけない蓄音器より、無料で次々と音楽が流れ出す Radio Setのほーが良さそうな気がいたしますよね?
それがなんでカンタンに普及しないのか?ってえと、まず当時の黒人労働者たちの収入から考えるとラジオ・セットそのものがけっこう「高価」であったこと。そして電力供給を「受けていない」家屋もかなりあったそうですから、手でゼンマイを巻きさえすれば聴けた蓄音器とはワケが違う、ということ。さらにもうひとつ、やはり初期の放送は「白人の富裕層」を対象として始まっていたために、その放送内容も当然のごとく「白人文化」に偏っていた、ということ。ただし、この最後の項は、徐々に黒人たちがラジオ・セットを手にするようになり、それにつれて放送内容にも「黒人を対象としたもの」が現れてくるにつれ、別な作用を黒人文化にもたらしたのではないか、と考えることができます。
それは、それまで一般的な黒人たちが触れる音楽というものが、Juke Jointで仲間と呑みながら一緒になって踊るバックに流れてるブルースの演奏であったり、あるいはハウス・パーティに出るその辺のストリート・ミュージシャンの、これもやはりブルースやノヴェルティばかりだった(と思うんですよ)ものが、こんどはラジオからカントリーであるとか、ヒルビリー、はてはハワイアンなど、様々な音楽がタレ流されるワケです。
それらが黒人音楽に与えた影響というものも軽視することはできませんよね。

http://www.slidingdelta.com/bluesmen/elmorejames.htmlでは Elmore Jamesが Durant周辺で演奏をし始め、チップを稼ぐようになったのを 1932年、彼が 14才のときから、としております。やがて 1937年には彼は Belzoniに移りますが、多くの資料ではそこで Sonny Boy Williamsonと Robert Johnsonに出逢った、としております(もちろん異説もございまして、それ以前、おそらく 1930年代の半ばにはすでに出逢っていた、としている説もあります)。
その Belzoniでは、継父 Joe Willie Jamesと母の Leoraとの間に生まれたとすると、この名字はちゃうよなー、ってとこから、もしかするとその後、また違う男との間に生まれたんじゃないか?と思われる異父弟の Robert Earl Holstonとともにコンビを組んで演奏したりしていたようですが、やはり重要なのは Robert Johnson、そして Sonny Boyとの交流でしょう。
おそらく Elmore Jamesのあの独特のスライド奏法がこの時期にスタートしているのではないでしょうか。
もちろん、それをその場で見ていたワケじゃありませんから「憶測」でしかありませんが、そのインテンシティではかなりの差があるとは言え、基本的には Robert Johnsonから受け継いだものが彼の中で独自に「発酵」して熟成されたのではないか、と考えています。

とは言っても、そのヴォーカル(の距離感、インパクト、温度)など、二人の間には相当な差異もまた存在し、そこらが「単なるフォロワー」ではなく「 Elmoreは Elmore」たらしめているところなのでしょうが。
ここで、元々は 1934年の Kokomo Arnoldの Sagefield Woman Bluesに由来する、と言われる Robert Johnsonの Dust My Broomに触れ、Elmore Jamesの奏法自体の代名詞となる「 Dust My Broom調」も獲得したのだ、とする大勢の論調には、異論はございません。ま、諸手を挙げて「賛成!」ってほどではございませんが、まあ、そう考えるのが自然、ってもんかもしれませんね的ニュアンスで。

Robert Johnsonのギター(ま、ブルース自体、とも言えますが)は、突然変異的に、それまでのブルースでは「あり得なかった」ものを創造した、というよりは、それまでのブルースを見事にブレンドして「完成形」を作り上げ、次世代にそれを手渡した、言わば結節点であったのではないか?というのがワタクシの Robert Johnson観なのですが、一方この Elmore Jamesのブルースは、まったく独自の個性に特化した、言わばエキセントリックな「発展形」という気がいたします。
その点、よく Elmoreのフォロワーなどと言われる Hound Dog Taylorにしても、Elmoreとは本質的に異なる、彼ならではの個性をとことん発揮した、まさに「 Hound Dog Taylorのブルース」を形成していると思うんですよね。
ま、そのあくまで個性を深化させてく生き方が「フォロワーだ」ってんなら、そうも言えますが、たいてーは単にスライドのスタイルだけを云々してるだけでしょ?その意味では Elmoreのフォロワーなんていませんよ。

1938年に Robert Johnsonが死んだ後、Sonny Boy Williamson IIと南部をまわったりもしていたようですが、1939年には Sonny Boyと別れ、自分のバンドを作った、としている資料もあります。
また、時期的にはおそらくこのあたりであろうとは思うのですが、彼はエレキ・ギターを使うようになり、また一部の資料によればラジオ・セットの修理の仕事をしていた関係で、アンプの回路などを自分好みに改造して(おそらく初段のゲインを上げたりすることで「天井にぶつかる」つまりヘッド・マージンでクリップさせて)今でいうディストーション・サウンドが出せるようにした、とも言われていますがそこら真相は不明でございます。

そして 1941年、トツゼン襲来した日本軍機によってパール・ハーバーが・・・
この卑怯な(!)攻撃からアメリカも参戦決定へ、という流れを受けて Elmore Jamesが海軍(ところで、公式には、U.S.Navyにカラード、つまり白人じゃない水兵が始めて採用されたのが、この 1942年 5月20日、という資料が存在しております。おやおや?では Elmoreが 1941年に海軍に入った、ってえ記述と矛盾いたしますねえ。でも、別な資料では 1940年 6月の時点で、海軍には 4,007名の黒人がいた、とする記載に出会いました。しかし、それらは「戦闘員」としてではなく─ただし 6名ほどの例外もいた、と記されてはおりましたが─乗務員、ま、言わばサーヴァント的な存在であったようです。ただし、開戦時には非戦闘員として参加していても、戦況によっては兵士に「昇格(?)」していったケースもあったかもしれません。また、もしElmore Jamesがラジオ修理などのスキルを持っていたとしたら、通信機器の保守などの任務についていた「可能性」があり、実際の前線での戦闘、特に先鋒となって上陸用舟艇で乗り込むなんてハードな任務には就いていなかったのかもしれません。海兵隊の方は Franklin Delano Roosevelt大統領による、各軍における人種差別の廃止命令によって 1942年に「ようやく」黒人兵士を受け入れた、とされていますから、この Elmore Jamesの場合には 1941年ということで、やはり US Marine Corpではなく US Navyでしょう)に入ったものなのか、あるいはそれ以前に入っていたものか、は判然といたしません。
ただし派兵されたのは太平洋海域だったそうで、その 3年後のグアム奪還に参加していたと言われております。

1942年になって、東京が空襲されたことは、ある意味、日本の太平洋における制空権がずいぶん「縮小」してしまった、という現実を暗示するものでした。
日本軍の反撃はことごとく潰え、サイパン、テニアン、グアムは米軍の前線基地となり、ここから B29による日本本土の空襲が頻繁に行われるようになります。
7月に日本政府はヒソカにソ連に和平の斡旋を依頼しますがモチロン拒否され、8月の原爆投下、和平斡旋どころかソ連の対日宣戦布告などと追い込まれたあげく、1945年 8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通告して降伏しました。

終戦によって除隊した Elmore Jamesはまず Belzoniに戻ったらしく(とりあえず Memphisに向かった、という説も)、そこで Sonny Boy Williamsonと同居して付近の Juke Jointなどでの演奏を始めています。またこの頃、いとこの "Homesick" James Williamson( John William Hendersonつー説もありますが・・・)と、また資料によっては Eddie Taylorとも一緒に Memphisのクラブに出演したり、 Bealeストリートで演奏をしていた、とされていますが 1947年にはまず Sonny Boyのバック・アップ・メンバーとして KFFA(最初、 Arkansas州 Helenaの the Interstate Grocery Buildingにありましたが後に the Floyd Truck Lines Buildingに移っています)の King Biscuit Timeにも出演を開始し、やがて南に下った Mississippi州 Yazoo Cityの WAZFから放送されていた the Talaho Syrup Show、さらに逆に北に上ったこれも Arkansas州 West Memphis(この地名でお判りのように Tennesse州 Memphisの対岸の街です)の KWEMから放送されていた the Hadacol Showにも出演するようになって行きます。
資料によっては、この KFFA時代の Elmore Jamesは Robert Nighthawkに「取り憑かれ」ていた、としている資料もありますが、Elmore Jamesの音を聴いてみても、ま、個人的な見解に過ぎませんが、あまりこの二人の間に共通性って感じられないような気がするんですが、それほど影響って感じられますかねえ?

アメリカは戦勝気分に乗って、社会情勢は大きく動き始めます。戦時下の抑圧された経済活動が軛を解かれ、様々な動きが出てきますが、それは音楽業界でも例外ではありません。
ただし、戦前の大きな流れであった大人数によるダンス・ミュージックのための楽団、あるいはジャズ・オーケストラとも呼ばれたいわゆる Big Bandは、その構成メンバーが出征したまま帰らなかったり、また演奏できる場も減ったりしたために一時の勢いは無く、そこに所属していたかってのメンバーたちはポジション(とウデ?)にもよりますが、小コンボに組み直したり、あるいは徐々にマーケットが拡大しつつある R&B系のスタジオ・ミュージシャン、あるいはライヴでのバック・ミュージシャンとしての仕事に流れて行き、それがまた音楽全体を微妙に変化させてゆくことになります。

そして戦争によって多くの白人男性が徴兵されて行ったことにより発生した都市部での空隙を埋めるように南部諸州から流入してきた黒人たちによって、それまでマイルドで都会的なテイスト(?)でシカゴを代表していた Bluebirdサウンドとはちょっと違う、猥雑なエネルギーに満ち、シンプルでストレート、かつもっと重心の低いブルースがマックスウェル・ストリートなどから広がり始め、クラブの音から次第にレコードの世界にまでそれが浸透していって、1950年代のシカゴ・ブルースとなっていく、っちゅーワケでしょなあ。

Elmore Jamesの初レコーディングは 1951年の Sonny Boy Williamsonの Eyesight to the Blindのバッキング、と言われていますが、その直前の 1949年には一時ピアニストの Willie Loveのバンドにもいたとも言われていますが、その Willie Loveが Sonny Boyの紹介で吹込んだとされる Trumpetでの録音を集めた Trumpet Masters, Vol.1: Lonesome World Blues( Collectable)は持っていないので、その録音時期、そこに Elmoreがいたのかどうかは確認できておりません。
1951年の 8月 5日、Mississippi州 Jacksonのクラブに Sonny Boyのバックとして出演していた Elmore Jamesは、Lillian McMurryのレーベル Trumpetに吹込む Sonny Boyに付き合ったついで(?)に、あの Dust My Broomを録音しています。
バックには Sonny Boy Williamsonのハープ、そして Leonard Ware( bass)と Frock O'dell( ds)。
ただし、これはシングルの裏面が Bobo "Slim" Thomasの Catfish Bluesとなっており、一部の資料ではそれを、録音した Elmoreがそのプレイバックを聴いてるうちにイヤになったのか帰ってしまって裏面の分が無かったからだ、なんて伝承もございますが、そこら真相は不明でございます。
しかもこの Bobo Thomasってのがどんなヤツなのかさっぱわからんのですから、ミステリーでございますねえ。
でも、このカップリングで発売されたレコードは Dust My Broomがかなりのヒットとなり R&Bチャートの 9位に入る(一週だけでしたけどねん)出来となっています。
ところで、とある資料では Dust My Broomはリハーサルを録ったもので、最初それがリリースされたが翌年もういちど録り直したリメイク版の I Beliveがヒットした、なんてあるんですが、これについては、どっからそんな話が出てきたのかまったく不明です。
確かに Trumpetでの録音ではリハーサルもテスト録音した可能性はあるが、それは本番で上書きされて消滅している、としている資料もあります。
また当初の Trumpet 146の後、Ace 508としてリリースする際に、カッティングをし直し(これが当時のリマスターリング!)、タイトルも I Believe My Time Ain't Longと変えていますが、これをカン違いしてるんじゃないでしょか。
Elmore Jamesと Trumpetとの関わりはこれひとつで終り、それ以降は Bihari Brothersの Modern、Flair、Meteorへと録音の場は移ります。

翌1952年 1月には Mississippi州 Canton(ここで Elmoreが異父弟の Robert Earl Holstonが経営するラジオ・ショップで働いていた、とする資料もあります)での Joe Bihariによるレコーディング。ここではポータブル・テープ・レコーダーが使われ、Cantonのナイトクラブ the Club Bizarreで録音された、と言われています。ピアノに Ike Turner、ドラムは氏名不詳。
この時には Please Find My Baby、Hawaiian Boogie、Take a Little Walk with Me、Dust My Broomなども録音されたようですが、Please Find My Babyと Hawaiian Boogieの二曲は Kent LP-9001などに収録されています。他はおそらくテープが散逸したか、これもまたテープに上書きされて消えた可能性があるようです。
この時の二曲のマスター・テープは後( 1953年 5月)に Los Angelesの Universal Recording Studiosでベースとドラムをオーヴァーダブされて Meteor master #MR 5017となったそうです。
同じく、これも氏名不詳のサックス・プレイヤーを加えて Lost Woman Blues( Please Find My Babyの Ver.2。ただしこれは Flair 1022として一度は市場に出ているらしいのですが、Lillian McMurryから、いまだに Elmore Jamesは Trumpetの契約下にある、という抗議を受けてすぐに回収されています。結局ちゃんとリリースされたのは 1954年になってからのこととなります)、Lost Woman Blues( Please Find My Babyの Ver.3。こちらはやはりベースとドラムを後にオーヴァーダブされて Meteor master #MR 5016となりましたが、それは結局リリースされず、オーヴァーダブされていないオリジナルの方が Flair 1022として後にリリースされています)、Hand in Hand(これは Flair 1031としてリリース。また Kent LP 9001にも収録されています。)を録音。

続いて Ike Turnerのピアノ以外は氏名不詳のサックス、ベース、ドラムをバックに
Long Tall Woman Blues、Rock My Baby Right( take 1。ただしこのマスターは後に紛失されています)
Rock My Baby Right( take 2。これは Flair 1048としてリリース。また Kent LP 9001にも収録されています)
My Baby's Gone( Ace CH 68)
One More Drink( take 1。Kent LP 9001に収録)
One More Drink( take 2。Ace CH 68)
が録音されています。ここまでが 1952年 1月の Cantonでの録音。
それと、これは Elmore本人が知っていたかどうか確認が出来ませんでしたが、ボイド・ギルモアってのが 1952年に出したシングル、All in My Dreams( Modern 872)には Elmore Jamesのいずれかの Please Find My Babyのギターが「移植され」て使用されたそうです。
その All in My Dreamっての、聴いたことが無いので未確認なんですが、ギター・ソロの部分を「切り貼り」しちゃったんでしょか?

同じ 1952年の11月には Chicagoの Universal Studioで Joe Bihariによるレコーディング。
そしてここではすでに「あの」メンツが揃っております。
そ、もうお判りですね? J. T. Brownのサックス、Johnny Jonesのピアノ、Ransom Knowlingのベースに Odie Payne Jr.のドラムです。
一般にはこのメンバーを the Broomdustersとしている例が多いようですが、その前の Canton録音ですでに Broomdusters名義が使われているとした資料もあり、そこらはちと「?」でございます。
というのも、Bihari Brothersは Elmoreを録音したものの、例の Trumpetの絡みもあってすぐにはリリースせず、その間に Chessでのシングルが出たことにより、慌てて Chessに抗議して回収させ、そこでやっと録音が「日の目を見た」としている資料があり、もしそれが本当ならば、1952年の Canton録音に遡って「 the Broomdusters」のクレジットを入れた可能性もあるからでございます。
てなことはさておき、この Chicagoでは Baby What's Wrong( Meteor 5003、Ace CH 112としてリリース)
I Believe(これは 1953年の 2月に 9位にまで上がり、以後 3週間チャートにとどまりました。
Meteor 5000、Kent 508、アルバムでは Kent LP 535、Kent LP 9001、Kent KST 538などに収録)
Sinful Woman( Meteor 5003、Kent LP 9001、Kent KST 538など)
I Held My Baby Last Night( Meteor 5000、Kent LP 9001、Kent KST 538など)

を録音しています。

面白いのはこの時に録音した歌無しナンバーがあって、それは Round House Boogieと Kickin' the Blues Aroundの二曲なんですが、これ、後に Elmore James and the Broomdustersじゃなく、Saxman Brown( J. T. Brownのことね) with the Broomdusters名義で、曲名も Round House〜が Sax Symphonic Boogie( Meteor 5001)となり、Kickin' the Blues〜は Flaming Blues( Meteor 5001・・・つまりシングルの裏表ですね。どっちゃが裏やら判らんけど)となってリリースされました。もちろんメンバーは Elmoreもこみで上とまったく同じです。
そしてこれも Meteor 5016としてリリースされた Sax-ony Boogie( Saxman Brown, Elmo James Broomdusters名義)と、Dumb Woman Blues( J. T. "Big Boy" Brown, Elmo James Broomdusters名義)の二曲も録音されているらしいのですが、この四曲はいまだ聴いたことがないので、どんなものかさっぱ判りまへん。

ま、ある意味、 J. T. Brownも「売れる」と判断されたんでしょか?

さて、1952年って言うと、この年に生まれたレーベルもあります。
まずはこれまたみなさんお馴染みの Sam Phillipsの Memphis Recording Serviceが、3月21日のアメリカ初のロックンロールにまつわる「暴動」(例のペイオーラ事件で失脚する人気 DJ、Alan Freedの企画した Cevelandの Moondog Coronation Ballでの「争乱」で、これがアメリカの保守層に「ロックンロール=悪」という刷り込みを補強したんじゃないでしょか)直後の 3月27日にスタートさせた Sun Records。その年に Joe Hill Louisや Maxwell Street Jimmy Davisが Sunに吹き込み。
そしてお馴染みの Bihari Brothersの四人兄弟( Saul、Jules、Joe、そして Lester)のうち、社内では一番軽いポジションにいた末っ子の Lesterが本拠である西海岸を離れ、Tennesse州 Memphisで創立したのが Meteorで、先の Elmoreのセッションもこの Lesterのセッティングによるものだったようですが、しかし現場(のプロデュース)はすぐ上の兄 Joeが取り仕切ってるのねん。すぐにリリースされなかったのは、そこらの力関係もあったのかも?
Elmore Jamesの Chicagoでのレコーディングは翌1953年の 1月17日にも行われ、ここでもメンバーは J. T. Brownのサックス、Johnny Jonesのピアノ、Ransom Knowlingのベースに Odie Payne Jr.のドラムです。ただし、これは Bihari Brothersによるものではありません。
そ、これが問題の(?) Chess録音なのねん。これと 1960年の 4月にもういちど Chessに吹込んだナンバー(その時のバックはもちろん Elmore以外全とっかえでしたが)、さらにナゼか John Brimのナンバーと組み合わせてリリースされた Whose Muddy Shoesを構成する曲が録音されています。
まず Country Boogieというインスト。これは後に Tool Bag Boogieと改題されて Whose Muddy Shoesに収められています。
続いては My Best Friend、そして See My Baby(アルバムでは I See My Babyになってますが・・・)。
さらに She Just Won't Do Right(これが問題のシングル Checker 777で、「いったん」発売されたものの、Bihari Brothersからの抗議で回収したヤツですねえ。カップリングは Country Boogie。これもアルバムでは曲名が Dust My Broomになってます)と Whose Muddy Shoesの 5曲を録音しました。
なんでまた Elmoreが Chessでリリースしたか、ってえとたぶん Bihari Brothersが録るだけは録ったけど、いっこうにリリースしてくれない、という事情があったのかもしれません。ま、ここらは、どのくらい不満に思ってたのか、本人にでも訊かなきゃ判りっこないんですけどね。

そんなことがあった後の 1953年 4月、ふたたび Joe Bihariのプロデュースにより、Chicagoの Universal Studiosでレコーディング・セッションが行われましたが、最初は Little Johnny Jones and the Chicago Hound Dogs(どひ〜!)の名義で(つーことは、もちろんここでの主役は Johnny Jonesで、もちろんヴォーカルもとってます) Sweet Little Womanと I May Be Wrongの二曲を録りました。これは Flair 1010および Ace CH 68としてリリースされています。
メンバーはそのまま、主役が Elmoreに替わり、Elmore James and his Broomdusters名義(ただし、いつものメンバーに Boyd Atkinsのテナーあるいはアルト・サックスが加わっています)で
Early in the Morning( Flair 1011、Kent LP 9010など)
Hawaiian Boogie-ver. 2( Flair 1011、Kent LP 9010など)
Can't Stop Lovin'( Flair 1014、Kent LP 9010など)
Make a Little Love( Flair 1014、Kent LP 9010
など・・・この「など」ってのは例えば Red Lightnin'なんてえ他のアルバムにも収録されてる、ってこと。ここでは判りやすいので省きましたが LPとあるのはアルバムね)

次も同じメンバーで 1953年 8月に同じスタジオで
My Best Friend( Make My Dreams Come True): Kent LP 9010
Make My Dreams Come True-take 2: Kent LP 9010
Make My Dreams Come True-take 3: スタートを失敗
Make My Dreams Come True-take 4: Ace ABOXCD 4
Make My Dreams Come True-take 6: FL 162
Make My Dreams Come True-take 7: Flair 1031: Fire 1011: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 1: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 2: Ace CH 68: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 3: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 4: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 5: Kent LP 9010: Ace ABOXCD 4
Strange Kinda Feeling-take 6: Flair 1022: Ace LP CH 112: Ace ABOXCD 4
Dark and Dreary-take 1: Ace ABOXCD 4
Dark and Dreary-take 2: Ace CH 68: Ace ABOXCD 4
Dark and Dreary-take 4: Flair 1048: Crown LP 5168: Custom CS 1054: United US 716: United US 7716: Ace ABOXCD 4
をレコーディングしています。

続いては Joe Bihariがらみではなく、Chicagoの Universal Studioで、あの Atlanticの Jerry Wexlerがプロデュースした Joe Turnerのバックに Elmore Jamesとピアノの Johnny Jonesが参加しています。
他のパースネルはベースに Jimmy Richardson、ドラムに Red Saunders、これに Sonny Cohnのトランペット、Grady Jacksonのテナー、Mack Eastonのバリトン・サックスで 1953年の10月 7日に録音されたのが Oke-She-Make-She-Popと TV Mama( Atlantic 1016)。
そしてその二日後の10月 9日、ってのが Johnny Jonesのためのセッションで、曲は Hoy Hoy( Atlantic 1045としてリリース。一説ではその別ヴァージョンも録音された、とされる)と、そのカップリング曲だった Up the Line( Doin' the Best I Can)に Wait Baby、Chicago Bluesの 4曲。
Elmoreは Chicago Bluesと Up the Lineの二曲でアコースティック・ギターを使用しています。他のパースネルは不明ですが、Atlanticの BLUES PIANO/CHICAGO, PLUS のライナーではサックスを J.T. Brownとしています。

さらにこれも 1953年の Chicagoで、Junior Wellsのバッキングをしています。他のメンツはピアノの Henry Gray、ベースの David Miles、ドラムは Fred Belowで、Hoodoo Manと Junior's Wailの二曲で、これは States 134としてリリースされました。

明けて 1954年(何月か、またスタジオは不明)にはまた Joe Bihariのプロデュースで Quarter Past Nineを吹込んでいますが、この時のパースネルで判明しているのはピアノの Ike Turnerとドラムの Odie Payne Jr.だけで、残りのサックス 2本、ベースは氏名不詳です。
さらに 1954年の 3月と 4月に Chicagoの Universal Studiosでは Raymond Hillのサックス(他にも氏名不詳のサックスが二人)、Johnny Jonesのピアノ、Ike Turnerのギター、Odie Payne Jr.のドラム(ベースも不明)で
Where Can My Baby Be-take 1: Ace ABOXCD 4
Where Can My Baby Be-take 8: Ace CH 68: Ace ABOXCD 4
Where Can My Baby Be-take 9: Kent LP 9001: Kent KST 538: United US 778と 7778: Ace ABOXCD 4
Please Come Back to Me( Sho Nuff I Do): Ace CH 68: Ace ABOXCD 4
Sho Nuff I Do(セッションの会話入り?): Ace ABOXCD 4
Sho Nuff I Do( alternate take): Flair 1039: Ace ABOXCD 4
Sho Nuff I Do: Kent LP 5022: Kent LP 9010: Ace ABOXCD 4
1839 Blues: Flair 1039: Kent 508: Kent LP 9001: Kent KST 538: etc.
I Got a Strange Baby(断片のみ): Ace ABOXCD 4
Canton Mississippi Breakdown: Kent LP 9001: Kent KST 538: etc.
の各曲が録音されました。

上の録音では Mississippi州(?)、あるいは Chicagoでの録音でしたが、今度は場所を Bihari Brothersの本拠地 Culver City( Los Angelesを東京 23区とすると Culver Cityは三鷹市みたいな位置関係かな?)に変えて、アレンジャーでもあるテナー・サックスの Maxwell Davis、バリトン・サックスの Jewel Grant、トランペットの James Parr、ピアノ Willard McDaniel、ベースが Ralph Hamilton、ドラム Jesse Sailesというスタジオ・ミュージシャンを揃え、プロデュースはもちろん Joe Bihariで 1954年の 8月あるいは 9月に行われた録音です。
FL 216 Sunny Land: Flair 1057: Kent 433: Kent 465: Crown LP 5168: United US 716: etc.(この曲だけは上記のパースネルのうち、管三本が参加していません)
FL 217 Standing at the Crossroads: Flair 1057: Kent 433: Crown LP 5168: United US 7716: etc.
FL 225 Late Hours at Midnight: Flair 1062: Kent LP 9010
FL 226 The Way You Treat Me ( Mean & Evil): Flair 1062: Crown LP 5168: etc.
FL 240 Happy Home: Flair 1069: Kent 331: Kent 394: Crown LP 5168: United US 716: Modern Oldies 15: etc.
FL 241 No Love in My Heart( for You): Flair 1069: Crown LP 5168: United US 716: etc.
と、合計三枚のシングル盤となっているのですが、パースネルが Elmore以外、全とっかえ状態であるにもかかわらず、ここでも the Broom Dustersという呼称が使用されています。

ありがちですけどねん。
ところで、いつからか、は厳密に書かれておりませんが、
http://www.slidingdelta.com/bluesmen/elmorejames.htmlによると Elmore Jamesの使用していたのは Kayのフラット・トップにサウンド・ホールと言う、いわゆるウェスタン系のギターにマグネチック・ピックアップを取り付けたもので、どうも自分で配線したものらしいですね。

翌1955年 8月になると、今度は New Orleansの Cosimo Matassaの J&Mスタジオで録音が行われました。
バック・ミュージシャンはここでの数々の録音に関わったピアノの Edward Frank、ベースの Frank Fields、ドラムの Earl Palmerが揃っています。プロデュースはもちろん Joe Bihari。
Dust My Blues -take 3: Flair 1074: Kent 331: Kent 394: Crown LP 5168: United US 716 & 718: etc.
Blues Before Sunrise: Flair 1079: Crown LP 5168: United US 716: etc.
I Was a Fool: Flair 1074: Crown LP 5168: United US 716: etc.
Goodbye ( Baby): Flair 1079: Kent 465: Crown LP 5168: United US 716: etc.
と 2枚のシングルになっていますが、ここで気付くのは Dust My Broomじゃなく、Dust My Bluesだってこと。この改題の責任者が誰なのかは不明ですが、ま、なんにしてもあまりヒョーバンは良くないですねえ。

明けて 1956年の 1月 4日、Chicagoの Universal Studiosで Elmore Jamesのレコーディングが行われました。
Raymond Hillともうひとり氏名不詳のサックス、Eddie Taylorのギター、Johnny Jonesのピアノ、そして氏名不詳のベースと Odie Payne Jr.のドラムで、これもプロデュースは Joe Bihari。
So Mean to Me-take 2: Ace CH 68
So Mean to Me-take 3: Kent LP 9001: Kent KST 538: United US 777 & 778
So Mean to Me-take 4: Ace CH 192
Wild about You Baby: 会話、中断
Wild about You: Modern 983: Ace CH 68
Wild about You( Baby): Kent LP 5022: Kent LP 9001: Kent KST 538: Ace CH 31
Elmo's Shuffle-take 3: Kent LP 9010
Elmo's Shuffle-take 4: Ace CH 68
Elmo's Shuffle-take 5: Ace ABOXCD 4
Long Tall Woman: Kent LP 9001: Kent KST 538: United US 778 & 7778: Ace CH 192
Long Tall Woman: Modern 983: Ace CH 68

を録音しています。
そしてこれが Bihari Brothersとの最後の仕事となったのでした。

ところで Elmoreの 1957年の録音が正確にはいつごろだったのか?は判らないのでございますよ。
ただ、月日以外のデータは残っておりまして、 J. T. Brownのサックス、Wayne Benettと Eddie Taylorのギター、Johnny Jonesのピアノと Homesick Jamesのベース・ギター(と表記されてますねえ)に氏名不詳のドラマーという構成で Mel Londonの Chief Recordsに録音しているのですが、資料によってはこのとき、Wayne Benettと Eddie Taylor、それにベースパターンを弾いてた Homesick Jamesまでが「同じひとつのアンプに挿してた」なんて書いてるのがありましたが、どこまでホントか、は「?」でございます。
このセッションでは Tampa Redの 1949年の名曲 When Things Go Wrong with Youが採り上げられ、他にも Mel Londonの手になる The Twelve Year Old Boyも収録されました。
The Twelve Year Old Boy: Chief 7001: VeeJay 249: Cobblestone 9001: Muse MR 5087 etc.
Coming Home: Chief 7001: VeeJay 249: Cobblestone 9001: VeeJay VJS-2-1007 etc.
It Hurts Me Too: Chief 7004: VeeJay 259: Cobblestone 9001 etc.
Elmore's Contribution to Jazz: Chief 7004: VeeJay 259: Cobblestone 9001 etc.

この二枚のシングルに続き、もう一枚 Chief 7006となるシングルの二曲が録音されていますが、こちらは Homesick Jamesの参加が確認されていないようで、ドラム・ベースともに氏名不詳となっています。
Cry for Me Baby: Chief 7006: VeeJay 269: Cobblestone 9001 etc.
Take Me Where You Go: Chief 7006: VeeJay 269: Cobblestone 9001 etc.

で、もひとつ、これはまた Homesick Jamesがベース・ギターとなったトラックで
Knocking at Your Door: Chief 7020: Cobblestone 9001 etc.
も録音されました。
え? Chief 7020って他に無いじゃん、裏は?ってえと、これがあなた、じつは Earl Hookerの Calling All Blues となって 1960年にはちゃ〜んとリリースされておるのでございますよ。
ま、ついで、と申してはナンでございますが、次の Chief 7021こそ Earl Hookerが参加した Junior Wellsの Messing with the Kid なのよねー。その 10番あとの Chief 7031が Earl Hookerの Rockin' with the Kid *っちゅーカンケーです。

1958年に彼の録音は無く、いろんな資料に当たってみても、唯一その年に触れているのが、『せっかくの( 1957年の)録音も、商業的には成功には結びつかなかったことが判明した 1958年、彼はいったん南部に帰った』って記載だけのようで、ただ、これに関しては、それ以前からあまり調子の良くなかった心臓の具合を気遣って、彼は Mississippi州 Jacksonにいったん引っ込み、そこでタマに演奏したり、ラジオの修理の仕事をしたりしていた、としている資料もありますから、どっちみち、この年の彼は「お休みしてた」ってことになるのかもしれません。

翌1959年の 2月で一番アメリカを騒がせたのは 3日に報道された飛行機事故だったでしょうね。
前日に墜落した飛行機に Buddy Holly、Richie Valensが乗っていて、死亡していたことが判明し、ファンたちに大きなショックを与えました。「 The Day the Music Died」と言われたくらいです。

1959年の11月には、よーやく Elmore Jamesの次のレコーディングが始まりました。

でもその前にちょっと時代を前に戻して、と。
1917年 4月16日、South Carolina州の州都 Columbiaから北西に約100kmほどの位置にある Union(地名です)の生まれで、Elmore James on Fire/Enjoy ( P-Vine PCD 2889/90/91)の日本語に翻訳されたライナーで見る本人の言葉を信じるとすれば、南部での生活の経験もあるようですが、1930年代の終り近くに New Yorkに出て来たひとりの男が、1946年、あの有名な Apollo Theatreから僅か 1ブロックの 301 West 125th Streetに Bobby's Happy House Recordsというレコード店をオープンしています。
そこにはあの Atlanticの Ahmet Ertegenと Herb Abramsonがしばしば訪れ、彼らの製品を持ち込んではレコード店主としての意見も訊きにきた、と言われております。
それが Bobby Robinsonでした。

彼はレコードを販売するだけではなく、やがて自ら製作する(資料によっては、彼が Mel Londonの Chief Recordsのやり方に飽き足らず、自分のレーベルを、としているものがありましたので、もしかすると、一時 Chiefに関わったことがあったのでしょうか?残念ながら、他の資料では裏付けがとれていませんので、そのようなハナシも存在する、とだけお伝えしときましょ)ことを目指すようになり、1950年(あるいは 1951年)には Robinというレーベルを作りましたが、1952年には Red Robinと改名しています。このレーベルは兄弟の Danny Robinsonと共同で始めたもので、追って Whirlin' Disc Recordsを 1956年(単独で)、Holiday Records( Danny単独)に、また Fury Recordsも 1957年(これも単独)、さらに Everlast recordsは同じ 1957年ですが共同で、続く Fire Recordsが 1959年(単独)、Enjoy Recordsを 1962年(共同)に設立し、かなり膨大なカタログを持つようになっています。

ただ、本来 Fireは音楽出版に始まり、後には Furyなどで録音したトラックを販売するための別レーベルとなった、としている資料もありますが、そのヘンは確認出来ませんでした。
Red Robinは Morris Lane、Charlie Singletonあたりに始まり、Jack Dupree、Sonny Terry、Brownie McGhee、そして「あの」 Tiny Grimes( 1954)なんてのも・・・残念ながら(?)我らが Screamin' Jay Hawkinsセンセはすでにこの時期の Tiny Grimesのとこにはもうおられませんのですじゃ。
この Red Robinは次の Whirlin'ともども、全体としては明らかにヴォーカル・グループをそのカタログのメインにしており、たとえば The Trasher Wonders、The Du Droppers、The Vocaleers、The Velvetsなんてそれらしい名前でイッパイです。
Whirlin' Disc Recordsは The Channels、The Continentals、The Quadrellsなんてグループが吹込んでますが、これらがどんなグループなのか?なんてことは訊かないでねん。
Holiday Recordsは The Bop-Chords、The Harmonairesなんてのが録音してますが、これもどんなのか、さっぱ判りません。

とは言っても Furyのカタログを見ても The Kodaks、The Federals、The Miracles、The Emotionsなんて言う、たぶんヴォーカル・グループじゃ?ってのがどっちゃりあるんですけどねえ。
ま、あまり厳密には別けてなかったんでしょか。
そして Furyとなると The Teenchordsに始まって Hal Paigeや Tarheel Slim、Wilbert Harrison、そして「あの」 Fury 1035、Sammy Myersの You Don't Have to Go (1960)なんてのもあります。
後には Lee Dorseyなんてのもカタログに加わりますが、ここでの最大のヒットは Wilbert Harrisonの Kansas City (1959 -two million!)でしょか。ま、Gladys Knight & the Pipsなんてのもありますが。
その Kansas Cityについては Wilbert Harrisonが Savoyとの契約を残していたため、裁判沙汰*となってエラい目にあったりもしております。

Everlastでは The Charts、The Kings & the Queens、Les Cooperなんて名が挙っていますが、ワタクシとしちゃあ Wild Jimmy Spruillが目玉ですなあ。
ま、上で挙げた他にも Danny Robinsonのレーベルで The Rodans、Charles Walker、Bobby Brantなどを持つ Vest Records、Jerry Dornや Artie Lewis、Jesse Powell、Bob Myersなどをリリースした Fling Records (by Bobby)、King Curtisの Soul Twist (1962:後に Everlast 5030)や Janet Calloway、Titus Turner、Riff Ruffin、Willie Hightower、そして後には Elmore Jamesもリリースした Enjoyなどという一大グループとなっているワケです。

さて Elmore Jamesは Bobby Robinsonにとって(前述のライナーによれば)待望のアーティストだったらしく、その始まりはレコード店時代に Trumpetでの Dust My Broomを聴いたことに始まるようで、心臓の発作でミシシッピーに帰って「静養」していた Elmore Jamesがこの 1959年11月も末近く、シカゴのクラブに戻って来ていたのを「発見」した Bobby Robinsonはさっそくレコーディングをセットしました。
となれば、レコーディング・メンバーは当然、黄金の(?) Broomdustersでなくちゃいけません。
つまり、J. T. Brownのサックス、Johnny Jonesのピアノ、ドラムは Odie Payne Jr.ですが、ベースは Ransom Knowlingのかわりに Homesick Jamesでございます。
The Sky is Crying: Fire 1016
Bobby's Rock: Fire 1011
Held My Baby Last Night: Fire 1016
Dust My Broom: Capricorn 9 42006-2: P-Vine PCD 2889/90/91
Baby Please Set a Date: Capricorn 9 42006-2: P-Vine PCD 2889/90/91

この録音の中から The Sky is Cryingが 1960年 5月に R&Bチャートの 15位にまで上る、というヒットを記録しています。
そしてご存知のよーに、この曲は実に多くのカヴァーが!
思いつくままに並べてみても Luther Allison、Earl Hooker、Albert Kingに Freddie King、Lightnin' Slimに Magic Slim、Pinetop Perkinsなんてとこでしょか?
白人のロック系まで広げると S.R.V. やジョニー・ウィンター、ゲイリー・ムーアなんてとこが知られてるよーですが、ワタシとしちゃあドンブリグッド・・・うっぷす、George Thorogoodがいっちゃん良かったなあ。
ま、たびたび水をさしてますが、ワタクシ個人としちゃあ実は The Sun is Shinningのほーが好きなのねん。

正確な日付は判らないのですが、たぶんこの1960年の早い時期に、こんどは New Yorkの(あ、いつも単に New Yorkと書いてますが、州名ではなく、New York Cityのことです) Beltone Studiosでレコーディングを行っています。
しかし Bobby Robinsonは今回そのバックには Broomdustersではなく、主に New York系(?)のミュージシャンを起用しました。
これが前回の録音の出来から、むしろ New Yorkテイストを入れた方が良い、と判断してのことか、あるいは単にスケジュール的なものによるものなのかはちょっと判りませんでしたが。

ベースの Homesick Jamesを除けば全とっかえ状態で、氏名不詳のピアノだけはどうか判りませんが、たぶん初顔合わせ(?)じゃないでしょか。ギターの Wild Jimmy Spruill、ドラムの Belton Evans、そして一部か全部か、一部とすればどの曲でか、は判りませんがサックスには Paul "Hucklebuck" Williams*が参加していた、と言われています。

*─ Paul "Hucklebuck" Williams: 1915年 7月13日、Tennesse州 Lewisburg生まれ。彼が 13才の時に一家は New Yorkに移り、ハイ・スクールのジャズ・バンドでサックスを吹くようになります。
さらに地元のバンドでも演奏をするようになった彼を Detroitのレコード店のオーナーでかつレーベルのオーナーでもあった Joe Von Battle( JVB Recordsとなる)に見出され、そのレーベル New Jerseyレーベルに初吹き込みしています。
その時の曲は 35-30(前述の JVBの本社の住所の「番地」だそうです)で、そこそこヒット。
その「なんかにちなんで」路線は D.J.シリーズに発展(?)し、Wild Bill Mooreと一緒に Leroy Whiteのために吹込んだ Swinging for Leroy、さらに Washington D.C.の D.J、Max Silvermanには Waxie Maxie、Chicagoの Al Bensonには Benson's Bounce、St. Louisの Jesse "Spider" Burksには Spider Sent Me・・・
1948年に Lucky Millinderとやってた時に Savoyに吹込んだナンバー Hucklebuckは 1949年の 2月からチャートに登場し、連続 32週 R&Bチャートにとどまり、最高位はモチロン 1位で、それも 14週間連続、という大ヒットとなり、以来 Paul Williamsはそのミドル・ネームに "Hucklebuck"がつくようになったのでした。
その後 Atlanticのスタジオ・ハウス・バンドの一員として Ruth Brownの Hello Little Boyや、この Elmore Jamesのセッションなどに参加し、後には James Brownのバックのディレクターの仕事もしています。
2002年 9月 4日 New Yorkで死去。

この New Yorkでの録音は
Rollin' and Tumblin': Fire 1024: P-Vine PCD 2889/90/91
I'm Worried: Fire 1024: PCD 2889/90/91
(I) Done Somebody Wrong: Fire1031: PCD 2889/90/91
Fine Little Mama: Fire 1031 & 5001: PCD 2889/90/91
Something inside of Me: Fire 5001( 1976): PCD 2889/90/91
そして I Can't Stop Loving You: Early One Morning: I Need You: Strange Angel: She Done Moved: My Baby's Gone(これについては 1962年の録音、という説もあります。DJM DJD 28008)の各曲については Capricorn 9 42006-2と P-Vine PCD 2889/90/91に収録されています。

続いては 4月に、こんどは Leonard & Phil Chessのプロデュースでレコーディング・セッションが Chicagoで行われました。
このときのパースネルについては資料によって相違があり、P-Vine PCD 2889/90/91のライナーでは J. T. Brownのサックス、Johnny Jonesのピアノ、Homesick Jamesがベースで、Henry "Sneaky Joe" Harrisのドラムと明記されているのですが、一部のサイトでは Eddie Taylorと Homesick Jamesの名を挙げて、他は unknownとしているものもありました。
ま、それはともかく、ここでの録音は、あの 1953年の「抜け駆け」録音と一緒に(そして John Brimのトラックと合わせて)アルバム Whose Muddy Shoes Chess LP-1537となったものです。
I Can't Hold Out ( Talk to Me Baby): Chess 1756: Chess LP-1537
The Sun Is Shining: Chess 1756: Chess LP-1537
The Sun Is Shining( Alt. take): MCA MVCM-22029(? PCD 2889/90/91のライナーでこのような記載があります。しかし MCAに関しては CH-9114が Chess LP-1537の再発盤だと思うのですが、この MVCM-22029ってのは発見できなかったため、本当にこの別テイクが収録されているのかどうか確認できておりません。日本盤でしょか?)
The Sun Is Shining( Alt. take): Argo LP 4034
Call It Stormy Monday (Stormy Monday Blues): Chess LP-1537
Madison Blues: Chess LP-1537

ところで Talk to Me Babyと言うのはアルバム Whose Muddy Shoesに収録した際のタイトルで、シングル Chess 1756としてリリースされた時点では I Can't Hold Outとして The Sun Is Shiningとカップリングで発売( 5月に)されています。
ま、個人的なことでもーしわけないけど、この Talk to Me Babyがワタクシにとっての the Best Tune of Elmore Jamesなのでございますよ。
そして Elmoreのこの時のテイクが同じようにワタクシの the Best of "Stormy Monday"ってワケ。

続いては、1960年、あるいは 1961年の初頭かも?の Elmore Jamesの録音ですが、場所は New Yorkの Beltone Studio。
これも New York録音のせいか、バッキングのメンバーはかっての Broomdustersではございません。
Riff Ruffinのギターにピアノは Johnny Acey、前回も登場した Paul "Hucklebuck" Williamsのバリトン・サックス、ブラス陣は他にもテナーの George Coleman、トランペットの Danny Moore、トロンボーンの Dickie Harris。ベースは不明ですが、ドラムは Johnny Williams(ただ、Earl Williamsとしている資料がありますが、これって同一人物なんでしょか?よく判りません・・・って、どっかで聞いたよな口調)。
プロデュースはモチロン Bobby Robinsonね。
Strange Blues: Fire 1503: DJM DJD 28008 :PCD 2889/90/91
Strange Blues (Alternate take): PCD 2889/90/91
Anna Lee: Fire 1503: DJM DJD 28008: PCD 2889/90/91
(My) Bleeding Heart: Enjoy 2015: DJM DJD 28008: PCD 2889/90/91
Standing at Crossroad: Enjoy 2020: PCD 2889/90/91
One Way Out: PCD 2889/90/91
Person to Person: PCD 2889/90/91
My Kind of Woman: PCD 2889/90/91
So Unkind: PCD 2889/90/91
Got to Move: PCD 2889/90/91
Find My Kind of: Fire : Enjoy : DJM :PCD 2889/90/91
そして資料によっては 1962年の My Baby's Goneと同時ではないか?とされており、この時のセッションでの録音かどうかは「?」なのですが、
Find My Kind of Woman: Capricorn 9 42006-2ってのがあります( P-Vineでは 1960年「か」 1962年の録音としています)。
ま、それはともかく、この一連の録音中での白眉(?)はやはり Person to Personでしょう。
Cleanhead Vinsonのが好き、なんてひとからすりゃあ(ま、おちゃらけ Screamin' Jay Hawkinsほどじゃないにしろ?)「おいおい、なんじゃこりゃあ!コードけちってねえか?」なんて言われそうでございますが、ワタクシ、この割り切りっぷりがなんとも言えず好きなんでございますよ。

1961年の夏、ふたたび New Orleans、とくればモチ(?) Cosimo Matassaの Cosimo Recording Studiosで Elmore Jamesのレコーディングが行われております。
プロデュースはこれもとーぜん Bobby Robinsonで、バックにはハープの Sammy Myers、ピアノの Johnny "Big Moose" Walker、ベースに Bobby Lee Robinson(えっ?もしかして Bobby Robinsonのミドル・ネームが Leeなの?と探ってみましたが、どーも別人みたいですねえ。それと、この時のベースを Sammy Lee Bullyとしている資料あり)、ドラムが King Moose(同じ別資料では Sam Myers「も」、としています)。
Shake Your Moneymaker: Fire 504: Enjoy 2022: PCD 2889/90/91
Look on Yonder Wall( with Hca.): Fire 504: Enjoy 2022: PCD 2889/90/91
Mean Mistreatin' Woman-take 1.: PCD 2889/90/91
Mean Mistreatin' Woman-take 2.: PCD 2889/90/91
Mean Mistreatin' Woman-take 3.: Enjoy 2020: PCD 2889/90/91
Sunnyland Train: PCD 2889/90/91
Go Back Home Again*: Capricorn 9 42006-2

*─ 未聴。これ一曲のために Capricorn 9 42006-2ってのを買う、ってのもなあ・・・ま、別テイクでそれでないと聴けない、ってのもあることはあるけどね。
この曲、たぶんこのセッションで録ったものじゃないか、としてる資料もなんか自信無さげだし、なんだかなあ。

ところで P-Vine PCD 2889/90/91に付属する Discographyでは、1962年( 1960年かも、とありますが)にも New Yorkで二曲録音、となっていますが、こちら、バッキングはすべて不明でして、しかも手元にある Red Robinをはじめとする Fire、Fury、Enjoyなどの Bobby Robinsonのレーベルのシングル盤を網羅した(と思われる) Discographyを浚ってみてもこの二曲はやはり浮上して来ません。
ただ、他の資料では曲名が違いますが 1960年の New York録音で、Find My Kind of Womanを別テイクこみで二つ併記しているものがあり、これが PCDの Discographyでは 1960年の My Kind of Womanと、おそらく 1962年とされる別な New York録音での Find My Kinda Womanとに識別されているようです。ついでながら、この 1962/New Yorkでは、もう一曲、My Baby's Goneも録音されているようです。

この 1962年の末かあるいは翌1963年の初めに New Yorkの A-1 Recording Studioで Elmore Jamesの「最後の」レコーディングが行われました。
プロデュースはもちろん Bobby Robinsonですが、ピアノの Johnny "Big Moose" Walker( alt. Walking Willie)以外のパースネルは不明です。
It Hurts Me Too: Enjoy 2015: Fire 2020/5000: PCD 2889/90/91
Everyday I Have the Blues: Enjoy 2027: Fury 2000: PCD 2889/90/91
Pickin' the Blues: Enjoy 2015: Fire 2020/5000: PCD 2889/90/91
Up Jumped Elmore: Fury 2000: PCD 2889/90/91
Dust My Broom: Enjoy 2027: PCD 2889/90/91
Hand in Hand-take 1: PCD 2889/90/91
I've Got a Right to Love My Baby: PCD 2889/90/91
Talk to Me Baby: PCD 2889/90/91
Can't Stop Loving My Baby: PCD 2889/90/91
She's Got to Go: PCD 2889/90/91
Twelve Year Old Boy: PCD 2889/90/91
I Believe: PCD 2889/90/91
I Gotta Go Now: PCD 2889/90/91
Make My Dreams Come True: PCD 2889/90/91
Back in Mississippi (conversation): PCD 2889/90/91
Look on Yonder Wall: PCD 2889/90/91
You Know You Done Me Wrong: PCD 2889/90/91
Black Snake Slide (alt. Blacksnake Blues): PCD 2889/90/91
以上が P-Vineの PCD 2889/90/91のライナーの Discographyに記載された録音のリストなのですが、一部の資料では、この他に
Hand in Hand-take 4: Capricorn 9 42006-2
You Know You're Wrong: Capricorn 9 42006-2
がこの時の録音では、としてあるのですが、この Capricornは持っていないので、なんとも言えません。
ま、それはともかく、この録音では、かっての彼自身のナンバーを再録音しているものが見られるのですが、そのヘン、評価が別れるところでしょう。
たとえば Talk to Me Babyで言えば、あの Chessでのテイクとはかなり違ってますよね。ワタクシがこの曲に惚れ込んだのも、 Whose Muddy Shoesを先に聴いていたからであって、こちらが先だったら My Favoritesには Happy Homeがなっていたかもしれません。

1960年の Chessへの吹き込みを最後に、彼は Chicagoでの吹き込みをしていませんが、これは、彼が Chicagoの Musician's Unionと衝突していたためで、それで New Orleansや New Yorkでの録音だったんですねえ。
そんな彼が 1963年の 5月に再び Chicagoに現れ、関係の修復に入ろうとしていた矢先に彼はまたしても発作に襲われ、しかも今度は快復することなく、そのまま還らぬひととなってしまったのでした。

Elmore Jamesはこうして、わずか 45年の生涯を 1963年 5月24日に閉じました。
彼の墓は Mississippi州の Ebenezerから Lexingtonへの間にある The Newport Missionary Baptist Churchの墓地にあり、現在見られる黒御影石状の正面に文字の刻まれた墓石は 1992年12月10日に Capricorn Recordsの Phil Waldenの音頭で建立されたものだそうです。

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