Benoit
Mississippi

Eddie Taylorは1923年の1月29日、ミシシッピー州で、Joseph Taylorと Mamie Gastonの間に生まれています。
他にも姉と弟がいた、と本人はインタビューで答えていますが、彼の三男(でも六番目)の Edward Taylor Jr.(Eddie Taylor Jr.とも呼ばれる)によれば、「兄弟姉妹はいたと思うがよく判らない(ただし、後で出て来ますが、シカゴで弟の Milton Taylorってドラマーと一緒にやった、とする資料もありますから、それがホントだとすると、この息子の証言とは矛盾することになりますね)」と言ってたそうです。
Eddie Taylorがまだ 3才になる前に父母が別れてしまったようで、彼は Greenvilleから 25マイル北、ミシシッピー河から数マイルのところにあった、母のいた Benoitの農場で成長したようです。
これも息子の証言では「ワシゃあ学校なんぞ行っとらん」と明言してた、っつーワケで、バイオに書かれている、そこから学校に通いつつ働いた、ってのを否定しております。ぜんぶ自習した、と。
インタビューでも、I used to cut wood, milk cows and do all the house work; used to pick cotton too...200 to 300 pounds a day.なんて言ってますが、それじゃ学校なんぞ行ってるヒマはおまへん。
あと、これはちょと信じ難いハナシだけど、メンフィス・ミニーに「子守り」された、と言ってたんだって(もち、インタビューでも語ってますよん。彼女の弾くギターがとっても良かった、って)。
BIG BEARのライナーにも載ってます。メンフィス・ミニーはそのヒザの上で彼のおムツを換えた、って(ううむ、おむつの取れない年齢でギター演奏の良さが判るものなのか?ナゾですじゃ)。そしてもひとつ、Robert Johnsonの兄弟でギタリストの Bull Cowってのが母に言い寄ってた、と。

Clarksdale

ま、それはともかく、Charlie Pattonや Robert Johnsonなんかを聴いてたのは確かでしょう。
彼が 7,8才のときには自転車を手に入れ(買ってもらったとかって記載は無いので入手の経緯は不明ざんす)それに乗って、どこであれ、ギターの演奏に触れられるとこに駆けつけたそうですが、長い時には 3,4ヶ月も帰って来なかったつーんだからスゴい!
Charlie Pattonを追って Stringtownから Lelandそして Shawへ。
また Son Houseのために Robinsonville、そして Tunica・・・
もちろんガキが入れてもらえるワケゃなくて、床下にもぐりこんでまで、聞こえてくる音をアタマに刻みこんだ、っちゅーんですからスゴい!コンジョーがちゃう!
1936年、そんな彼が13才の時に母が Sears Roebuckの通販で12ドルのギターを買ってくれたのでございますよ。で、それをチューニングしてくれたのは Popcornと呼ばれてた歌手だったそうです(と、あまし役に立ちそもないジョーホーですみまへん)。
ギターを手に入れて、これも「独学」でモノにしたようですが、息子の Edward Taylor Jr.に言わせれば「生まれついてのギター・プレイヤーだった」と。
この時期、一家は Clarksdaleに(ただし、本人は Stringtownと言っています)移っていますがそれによって Radioから聴くだけではなく、多くのブルース・プレイヤーの演奏に「手軽に」触れられるよーになったことがやはり彼のギターを育て上げてったんじゃないでしょか。
自転車で遠くまで行って覚えてくるより、聴いたカンドーそのままに部屋に戻ってソク自分のギターでカクニン(?)出来るワケですからね。
その Clarksdaleや Leland周辺では Big Joe Williamsや Son Houseと交流してたようです。
そして出会ったのが Jimmy Reed!ま、みなさまもご存知のとおり、Jimmy Reedがギターを覚えるのを手伝ったそうですが、後にはシカゴで 6曲の Billboard Top Tenを含む数多くの楽曲で Jimmy Reedの伴奏者として手伝うこととなります。しかし、それはまだちょい先のこと。
土曜日には街に出て、午後六時ジャストに街角で演奏を始め、集まった聴衆からの収入が一晩で 25から 30ドルになったそうです。

Memphis

1943年ころには「招き寄せられるように」Memphisへ。
陸軍と契約してる運送業者のとこでトラック・ドライヴァーの仕事につきます。おかげで(?)召集を免れたんだとか。
メンフィスでは水曜日が Beale Street、そして土曜の夜は Handy Parkに通い、Little Buddy Doyle(Charlie Doyle。戦前 Okehに Big Walter Hortonのハープをバックに吹き込んだ10曲がある。「Sweet Man Blues」など。生没年不詳)や Willie Tango(Willie Shaw。その Little Buddy Doyleの録音に参加。Allen Shawの息子。生没年不詳)、Jack Kelly(同じく Little Buddy Doyleの吹き込みに参加。guitarist/pianist。Jack Kelly’s Jug Bustersから South Memphis Jug Bandのリーダー。「Highway No.61 Blues」など。ピアノでは1952年、Jackie Boy名でジョー・ヒル・ルイスとの吹き込みあり。1905-1960)に Willie B(Memphis Willie Borum─戦前からのブルースマンで「Car Machine Blues─ただし戦後の1961年録音。Prestige BVLP 1048, BVLP 1055」など。エディ・テイラーによれば 1947年当時、メンフィスじゃ最初にエレキを使った仲だとか。当時シアーズの通販で、ギター&アンプのセットが 120ドルもしていた!Allen Shaw─スティール・ギター。「Moanin’ The Blues」─とコンビを組んでいた。1911-196?)などの「ローカルな」ギタリストや Joe Hill Louis、Big Walter Hortonなどとも出会い、さらにまたギターに磨きがかかったことでしょう。

Chicago

Eddie Taylorが Chicagoに出たのは、そこでポリスマンをしていた父がチケットを送って来てくれたからだそうです。それが1949年のことで、TVセットの梱包と発送をする仕事につきました。
さっそく「あの」Maxwell Streetに出向き、そこには同じよな「おのぼりさん」の Floyd Johnes、Moody Johnes、Snooky Pryorに Little Walterなんてのがゴロゴロしてたワケですが、そこで出会った(と思われる) Jimmy Lee Robinsonと一緒にまず Alibiで(その時には Jimmy Leeがベース弾いて、弟の Milton Taylorがドラム、一晩のギャラが15ドルだったんだって)、後には Jake’s Tavernや Club Jamboreeで活動を開始しました。
一説によれば、フレディ・キングが10代半ばで北上してシカゴに入った際、1950年ころ、まだマジック・サムやオーティス・ラッシュによってそのプレイ・スタイルをより完成に近付ける前のことですが、一時期エディ・テイラーとロックウッドの影響下にあったんだそーですから、それなりのプレゼンスはあったんですね。
また、Homesick Jamesに会い、John Brimと Grace Brim夫妻とも Club Jamboreeで共演しています。

1953年のある晩、彼が演奏してたとこに、一足先に Chicagoに出て、海軍で兵役を終えて来た Jimmy Reed(その近くに住んでたみたい)が現れてステージ上のエディ・テイラーを「発見(?)」。そこでふたりは再会をはたし、ふたたび交流が始まっています。
そしてバッキングの極北とも言えるファインでタイトなリズムと、レイジーなジミー・リードのヴォーカル&ハープの組み合わせが数々のヒット・チューンを生み出して行くのですよ。
そのジミー・リード同様、VeeJayと契約したのが1954年で、その翌年には「Big Town Playboy」が、37,000枚を売るマイナー・ヒットとなり、この曲が彼のニック・ネーム、Eddie "Playboy" Taylorの由縁でございましょう。ただし、その曲自体は Little Johnny Jonesがオリジナルじゃなかったっけ?
同年、Jimmy Reedとのツアーを開始。その後、ジョン・リーの伴奏も担当するようになります。

VeeJay

ところで、この VeeJayってレーベル名ですが、Vivian Carter Brackenと彼女の夫 James Brackenのそれぞれの名前のアタマの「ヴィ」と「ジェイ」から来ています。
Vivianはローカル局の D.J.をしてたんで、最新のブラック・ミュージックの動向にはとても敏感で、それが会社経営には大きく反映してたようです。
一方の Jamesは成功したレコード・ショップのオーナーでしたから、どんなレコードが売れるのか?についてはエキスパートだったワケですね。このふたりが1950年からパートナーとなって、そして1953年には VeeJayを設立し、以来数々のレコードを送り出してきたのです。
そして、もひとり忘れちゃいけないのが、Vivianの兄弟の Calvin Carterで、かってはミュージシャンだったのですが、VeeJayの敏腕 A&Rマンとして、営業方面から社を支えています。
エディ・テイラーはインタビューの中で、Calvin Carterがサウンド・メイクから関与し、「いい仕事をしてくれた」と評価してますよん。
この時の録音(1955年1月5日の「Bad Boy」、12月5日の「Ride ’Em On Down」と「Big Town Playboy」をはじめとして、1956年 7月9日の「Do You Want Me To Cry?」と「I’m Sitting Here」ではギターに Hubert Sumlin、ピアノに Johnny Jonesが参加し、「You’ll Always Have A Home」と「Don’t Knock At My Door」ではハープが George Mayweather)は、VeeJayからリリースされた Elmore Jamesとのカップリング・アルバム『South Side Blues』で聴くことが出来ます。

With Elmore

彼はまた、ミシシッピーに帰った時に Jacksonと Belzonaで初期の Elmore Jamesを見ているんですが(たぶん、1950年代の初頭でしょか?)、その時にはあまりピンと来なかったみたい。
でも、エルモアの1956年1月4日の Modernへの吹き込み(So Mean To Me/ Wild About You Baby/ Elmo’s Shuffle/ Long Tall Woman)や、1957年の Chief(The Twelve Year Old Boy/ Coming Home/ It Hurts Me Too/ Knocking At Your Door/ Elmore’s Contribution to Jazz)などの録音に参加することとなりました。

1957年からは Pepper’s Loungeに出演を開始。
徐々に彼の価値(?)が周知のものとなり、数々のセッションに招かれるようになって行きます。だって、彼を投入(?)すると、とたんにリズムがフラつかなくなり、歌が活きるからなのねん。
そんな彼が関わったミュージシャンは他にも Homesick James Williamsonや Snooky Pryor、Floyd Jonesなどがいます。

Family

1963年には娘の Brenda Taylorが生まれています。エディ・テイラーJr.によると、「ともかく彼女は冗談好きだった」そうです。翌1964年には、バターフィールドとも仕事してますね。
1965年、長男の Timothy Taylor誕生。ドラマーになっています。
1967年には次男の Larry Taylor(ドラム)と、次女の Edna Taylorが生まれました。ともかく歌うのが好きな女の子だったそうです。
1969年三女の Valicia Taylor誕生。音楽にはあまり興味が無い娘だったって。
1972年には、エディ・テイラー・ジュニアと呼ばれるよーになる三男の Edward Taylor Jrが生まれました。で、ここんとこがちと「?」なんですが、この年、エディ・テイラーは Veraって女性と結婚してるんですが、それまでず〜っと内縁の妻ジョータイででも、コドモたちは次々産んでたのか、それともその子たちの母(もしかして複数形で「母たち」?)とはちゃう「新しいオンナ」なんざましょか?ここらよー判りまへん。そのヘンはキョーミがおありの方にお任せいたしますわん。あ、そうそう、Hightone(Advent)の「I Feel So Bad」がリリースされたのがこの年ざんす。
1973年には四女の Demetria Taylorが生まれ、1975年に生まれた四男の Milton Taylorともどもドラマーになってます。このふたりの出産を挟んだ1974年の春には、ロンドンでイギリスのブルース系バンドからのメンバーで構成された the Blueshounds(メンバーは、ピアノの Bob Hall─ of SAVOY BROWN、ギター Roger Hill─ of The Brumbeats、The Uglys、ベースは Graham Gallery─ of The Brumbeats、または Bob Brunning─フリートウッド・マックの最初のベーシスト。1967年7月から9月まで在籍。ファーストアルバムなどに参加、ドラム Pete York─of the Spencer Davis Group。 Eddie Playboy Taylor & the Blueshoundsは、そのまま Big John Wrencherのロンドン録音でバッキング)とともにこのアルバム、『Ready for Eddie』(後に『I’m A Country Boy』として再発)をレコーディングしています。

Long Way
From Home

そして「運命の」1977年!・・・あ、運命の、っつーのはワタシにとって、っちゅうイミで、彼にとって、ではございません。あの、フェントン・ロビンスン入国不許可事件によってトツゼン Louis & Dave Myersにドラムの Oddie Payne Jr.とのパックで「日本行き」ですよー。
ま、そんときのハナシは日記のエディ・テイラーの第一回で書いてますんでハブきますが、うん、ありゃあ大きかった!ワタシにとって、ね。
やはり、自分の持ち歌の無い Louis Myersじゃフロントとれないってコトなのねん。自然と「トリ」はエディ、って流れだったんでしょね?こないだの某早指男みたく、なんでコイツが「トリ」やねん?ってのとはゼンゼンちゃうもんなあ。

この時を境に、ブルースの中での「ギター」の意味(なんてゆーと、ちと大袈裟なんですが)がワタシの中で変わってしまったような気がします。
それまでは、ご他聞に洩れずブルース・ギター=アドリブで弾くソロ、と思っていたのですが、Eddie Taylorという稀有な才能が見せてくれたバッキングでのリズム・メイク、つまり、カッティング、ストローク、パターンド・リフなどの重要性を「目の当たりに」して、サイドをキチンとこなせないのは「ブルースのギター」とは言えない、っちゅーことを実感したのでございました。
ホント、リード・ギターなんてダレだって弾けるんですよ。ちょっとカジっただけでも、ね。でも、マトモにサイド切れるホンモノのギターはまだまだ「少ない」ですねえ。

そして、ハードの面では、とかく批判されがちなリヴァーブの使用を見直すきっかけになっています。
なんせ出身が the Shadowsのインストなもんで、「リヴァーブなんて使うな!その場が残響をつけてくれるんだから」ってゆう硬派(?)の言い草に、以前から反発はしてたんですが、エディ・テイラーの「積極的に」リヴァーブを必須のものとして組み込んだ「音」の洗礼を受け、マーシャルなんぞのリヴァーブを内蔵してないアンプには一切の興味を失ってしまいましたね。
ま、どこでも自分のアンプ持って行けるワケじゃないし、VOXのパスファインダーみたく、手ごろなアンプなのにリヴァーブが無い、っちゅー対策としてデジタル・リヴァーブを用意しております。スプリングと違ってウッカリ蹴っても「ガヒャ〜ン!」なんて異音を出すコトもないしね。
え?ならマーシャルでもいいじゃん、って?うぷぷ、なんでかアレとリヴァーブって合わないんですよ。音量も出さないといー音しないし。
しかし、Eddie Taylorが使ってたサム・ピックだけは、ワタクシ相性が悪くて、遂にモノになりませんでした。どうもあれってワタシの手に負えないよなヘヴィーなゲージの弦に向いてるのかもしれませんね。

The Day

ワタシの愛するブルースマンはたくさんいます。でも、その中で、「尊敬」の度合いでは、もう群を抜いてこのひと。

その Eddie Taylorは、1985年 12月 25日、まさに Christmasの日に息をひきとりました。




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